File14 植松 ちよ 氏 Chiyo Uematsu

プロフィール
県保母会の創立者〜社会福祉法人松濤会創設者〜

社会福祉法人松濤会創設者

県下の女傑と謳われ、官庁関係からは「うるさい婆さん」とさえ辟易された印象深い植松ちよの人間像を、明治の生誕にまでさかのぼって、生涯をたどって見ることとする。

明治34年2月25日、静岡県駿東郡浮島村境(現、富士市境)に、鈴木豊松を父とし、のぶを母として出生した。
浮島村は名の如く湿地帯が多く、富士川、潤川が、自由奔放に流れていた頃、富士山麓の低地を流れ、行き止まりになってできた地帯と言われ、加島(富士市)吉原、原と続いた葦原の沼地で、野鳥の宝庫でもあった。
鎌倉時代に水鳥の飛び立つ音を源氏の夜襲と間違えて敗北した平家との富士川の合戦はこの辺りからのことと思われる。
徳川初期より長い時期をかけて富士川の築堤工事が完成し、農耕地もでき住居も定着して吉原宿も栄えた。
浮島沼は原の海岸線より低く人家はなかった。彼女の誕生した浮島村境は、南の海岸線原町を見下ろす、富士の裾野の位置にあり、浮島をはさんだ北側の丘陵の農業地帯であった。

明治41年(7歳)で浮島小学校に入学、卒業して、
大正3年(13歳)で富士高等女学校(現、静岡県立吉原高等学校)に入学した。
当時、女学校に入学できる女性は、よほどの資産家の娘でなければかなえられない望みであったが、豪農の娘であり、村一番の才女であったがために実現できた。
もと宿場の吉原町は富士郡唯一の街で、女学校もここにしかなく、東は沼津まで出なければならなかった。
近いと言っても、吉原までは2時間以上も掛る距離にあり、13歳の少女に通学できる道程でないので、吉原町に寄宿して4ヵ年を耐えて無事卒業した。
大正8年(18歳)浮島小学校(現、沼津市立、浮島小学校)に代用教員として奉職、次の年には、小学校本科正教員の免許を取得しているのを見ても勝気な娘の片鱗が伺える。
大正12年(22歳)に駿東郡泉尋常高等小学校(現、裾野市立、東小学校)に転任を命ぜられた。
勝気な娘も22歳となれば、男性を識別する頃であろうか、同校に共に奉職する、植松碧の瀟洒(しょうしゃ)な姿が彼女をとらえた。

背の高い白皙(はくせき)貴公子然とした、植松碧は、他の女教員のあこがれの的でもあった。
彼は原町の由緒あり、格式高い植松家からでた新宅の次男坊である。
植松本家は、徳川幕府時代の参勤交替で、上り下りの大名が小憩される場所となっていた。
明治になってからは、皇室の宮様方が訪れ、植松家の庭園を鑑賞され、宿泊されることもあった。
のちに、原町保育園を宮様方がしばしば訪れたのも、過去にこのような関係があったことによるものであろうか。
大正時代になっても、有名人が植松本家の庭園を訪れ、茶菓の接待を受け、芳名簿に記帳して帰るのが習わしとなっていた。
植松家は、本家、分家、新宅の三つの家系に分かれているが、植松碧は新宅系列で、植松本家の四女(碧の母)が聟養子を迎え、新宅の始祖(明治7年12月)になったと言う。
ともかく、当時の大地主であり、由緒正しい家柄の彼と、勝気な才女、鈴木ちよが恋愛関係となり、一ヵ年続いたのである。
大正14年2月5日(24歳)には恋は稔って目出度く結婚式を挙げることになる。
このうわさは、近隣近郊まで広まったので彼女の生家の浮島村は、上を下えの大さわぎの如くとなり、東海道筋の素封家植松家に、農家の娘がお嫁入りする、玉の輿だ、など喜んだり、羨んだりで、結婚式の当日は浮島村の名誉とあって、村民が提灯行列して原町の植松家に送ることとなった。

そこまではよかったのであるが、格式を重んずる新宅植松家には、それ相応のしきたりがあり、その堅くるしい中で、しゅうと、しゅうとめ、こじゅうとに仕える身の植松ちよとなってしまった。
身分の高さ低さは、膳の高さできまると言われた封建社会のしきたりが、植松家には伝統として残されていた。
彼女はそのしゅうとや夫たちの足高膳を調え、給仕し終わったあとで、一段下った座敷に、一段低い膳に向い、ひとりぼっちで食事をすることの辛さも味わわなければならなかった。(本人の述懐)
その上、時間を気にして泉小学校に徒歩通勤することがまっていた。
校長の斡旋で、同年9月には地元の原町小学校に転勤となり、通勤の苦労は解消された。
しかし間もなく妊娠、出産と続き、五年目には三児の母となった。
格式はあっても次男の碧家は、共稼ぎしなければならない状態にあったので、3人の子どもの養育、教師としての勤務、家計の支えの三つ責を果たしつつ過した。
女中が吾が子を背負わせてきて、小学校の小使室の片隅みで、短い休憩時間に授乳する時、気丈な彼女も考えに沈むこともあった。
ほとほと疲れもした。
その時ふと脳裏をかすめるものがあった。

自から振り返って、共かせぎして現在苦労はしているが、幸い女中を雇うことによってその日を無事に過している。
原町の農家や漁民たちはそれができない。
幼児達は放置されている。
だから最近、海に溺れる幼児、畑の溝に落ちる幼児などの事故死が相ついで起っている。
よし、この乳幼児を護ろうと決意した。
昭和5年(29歳)決然として小学校教師の職をいさぎよく捨て、自宅を開放して原町保育園を創設して園長となった。
保育所は、都市にはわずかにあったが、農山漁村には珍しかった。
保育園とは何をすることさえ知らなかった原町の人々は、植松ちよの女丈夫の保育を続ける姿に感激し、町役場も、小学校の旧校舎を無償譲与する等協力援助により、保育室も完備することができた。
またたく間に15ヵ年が経過、昭和12年日中戦争が勃発したことにより、農漁村からは、男ざかりの健康な青年が招集されて、中国大陸の戦火に加っていった。
農漁村はこのため働き手を失って、託児所や保育所の必要にせまられ、県庁は、季節保育所の奨励に乗り出し、保育養成の講習会が各所に開かれ、植松ちよは講師となって活躍、自らも、出張季節保育を三ヶ所も開設し続けた。この活躍ぶりが認められ、昭和15年(39歳)原町保育園に御下賜金の拝受があって、20年の辛苦が初めて酬いられた。
昭和18年、19年には、秩父宮妃殿下、朝香宮の御視察があり、ねぎらいの御言葉を頂いたのであったが、昭和20年には空襲等のため、一時休園の止むなきに到った。しかし、戦後にはいち早く、再建して、飢餓状態の乳幼児を保育し、赤い羽根共同募金の配分等で内容も充実した。

昭和22年(46歳)児童福祉法公布され、厚生省児童局が新設、第1回児童福祉大会、第1回全国保育連合会(幼保)と続き、昭和23年の児童福祉法施行、細則制定となり、静岡県民生部児童課が創設され一挙に旧体制の既存の保育園等が認可された。
昭和24年(48歳)原町保育園も認可され、保母資格も取得した。
この頃から、植松ちよが県下を舞台に活躍することになる。

第一次保母認定講習会(昭和23年)が静岡市で実施されたとき、彼女は昨日まで季節保育所保母養成の講師であったが、この時ばかりは、講習生として参加していた。
畳敷の講習会場のすみの火鉢を抱えて、灰を火箸でかきまぜながら聞いていたと言う。
講習会が終わった際、第一次参加者173名に向って言った。
「ちょっと待ちな、あんたちゃね、そのまんまばらばらに帰ってしまちゃ駄目だよ、折角保母の資格を得ても、このあと研究する会を作っていかなきぁ、責任ある保育はできないよ」と相変わらず火鉢に横ずわりになったまま、ぽつりと語ったと言う。この一言が保母会結成の火種となった。
参加保母は、東部、西部、中部に分かれて協議し、県保母会結成の準備がなされるような態勢になった。
昭和23年秋、東部睦会、24年、中部、ときわ保母会、西部、小笠、磐田と支部が結成された。
昭和26年(50歳)5月25日、静岡県立工業高等学校講堂を会場として、静岡県保母会創立発会式が挙行され、483人が参集した。
植松ちよは初代会長に選出され、10年間継続することになる。
この間、毎年4月には県下の総会を開き、運動会、研究発表会、講演会等を実施した。
他県に於ては、県社協に従属する型の保母会であるが、静岡県は初代会長の意志で、断固として独立独歩を断行した。
このあたりが、女傑とたたえられる、原因かもしれない。
お祭りさわぎが大すきで、何事も派手に振舞った。またよい部下(子分)に恵まれ、横山房江、平岡ユクヨ、秋山幸、岡野ゆき等が智恵者となって盛り上げた。
昭和28年(52歳)保母会機関紙「あゆみ」発行
昭和30年(54歳)第5回総会には、秩父宮妃殿下を迎えて「会旗」の制定発表を行った。
昭和36年(58歳)会長を辞任、保母会顧問となってしりぞいた。

県保母会長時代の役職も多く、
静岡県保母試験委員、民生児童委員、静岡県児童福祉審議会委員、県社協評議員、県保母専門学院講師等要職を歴任した。
これらの栄誉として、
昭和27年(51歳) 厚生大臣表彰
昭和41年(63歳) 藍綬褒章受賞
昭和47年(69歳) 勲五等瑞宝章
昭和59年(81歳) 叙位 従六位
以上を日本国の賞を受けている。

おしゃれで和服が似合う人、「おい」と人をよびすてにする人、「わたしゃ、県保母会がかわいくて、しょうがないだよ」と言いつづけた人、プロレスを夢中になって見た人。
昭和59年2月25日、沼津市原、徳源寺に葬る。

※ この文書は昭和60年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(永田 泰嶺 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )