File18 井上 哲雄 氏 Tetsuo Inoue

プロフィール
舘山寺子どもの家創立者〜中国残留孤児になるのを防いだ人〜
中国残留孤児になるのを防いだ人

はじめに

敗戦の翌年、中国東北ハルピン、当時10歳だった池田邦俊(以下人名に敬称略)は、餓えと寒さで肉身を失い一人だけとり残された。お定りのコースで、中国人に買われゆく身となった時、一人難民収容所を脱出する。

「ひと気のない、ロシア風の建物が多い街並みを、とぼとぼ歩いていると、東の空から陽の光がさし始めたころ、日本風のもと幼児園らしい施設の前に来ました。ふらりと構内に入ると、子どもの死体が十数体、板塀のわきに積み上げられているのが目にはいりました。私はとっさに、ここはこどもがたくさんいるな、と直感し急いで玄関の扉をたたきました。
たたけよ、さらば開かれん!
『おはようございます。おはようございます……』
たたくこと十数回、眠そうな目をこすりながら、髪面の男がヌーと顔を出しました。
『ようこそ、この愛生学園へ。神のお導きです。さあ、お入りなさい』
彼は何も訊かずに、やせ細った汚い乞食みたいな私を招じ入れました。
井上哲夫牧師。彼は日本人の戦争孤児を集めてめんどうをみていた牧師さんだったのです。」(されど、わが「満州」228p 文芸春秋編刊)

井上哲雄の雄が、夫と違っているが、これは、これから紹介しようとする井上牧師に間違いない。「子どもの死体が十数体、板塀のわきに積み上げられている」と、淡々と語られている異常な時代を、大勢の孤児達の救済のために全力を賭した井上哲雄とはいかなる人物であったか。そして、ハルピン愛生孤児院から引揚後、伊豆長岡愛生学園となり、更に舘山寺子供の家「福音寮」に至る歩みはいかような茨の道であったのか。この小論はそれを語りたい。と同時に、これは養護施設清明寮の前史でもある。

ハルピンから博多まで

井上は敗戦の日を、ハルピン郊外の長嶺子キリスト教開拓団診療所の医師として迎えた。やがて香坊の捕虜収容所に収容され、5万人の収容者を診療する医師の一人として働いた。当時ハルピンには各地からたどりついた難民が13万人いた。ソ連軍はその面倒を見る事ができないので、捕虜5万人の中から10人を釈放し、日本人難民の救済に当たらせる事となった。井上はその一人に選ばれ、「ハルピン難民救済会」を開設して忙しく走り回ることになった。

間もなく井上に新しい使命が与えられる。

「ところが、ソ連から『お前達は、おとなの救済をしているが零下30度の中で行き倒れになって、凍死している子どもが街にごろごろところがっている。子どもの救済をせよ。孤児院を開設するように』との命令がきた。私は医者で牧師であるということから孤児院の院長に指名された。『私は子どもの世話は不向きなので』と断ったがどうしても聞き入れてもらえない。そこで『3日間、待ってほしい、断食して神様のみ旨を聞くから』と話した。」

(現今の奇跡 16P 井上哲雄著)

3日間の断食後、「恐るるなかれ、我汝を離れじ、汝は我に従え」という神からの召命を聞き、引き受ける決心をする。時に井上、32歳であった。
この孤児院は「ハルピン愛生孤児院」と命名され、またたくまに350人もの子ども達が集まった。助ける人もあったが、日を追ってこの事業の困難は増大する。冒頭引用した本の中で、池田邦俊は次のように述べている。

「しかし、彼の粉骨砕身の努力にもかかわらず、そこも暗い所でした。顔から笑いが消え、部屋の隅っこで膝をかかえてだまりこくっている孤児達の気持ちを何とか引き立たせようと、彼はよく、近くの松花江へ連れて行きました。水遊びに興じている間は笑顔の戻る子もいますが、学園に引き揚げるとまた、皆だまりこくってしまいます。悲しさのあまり、だんだん食が細くなり、死んで行く子が後をたちません。」

(前掲229p)

同孤児院は結局800人もの孤児、遺児を収容したが、その中で栄養失調、発疹チフスなどで236人が死亡、井上らはそれをハルピン郊外に葬った。
その後、引き揚げ命令が出されると、井上は各県人会に身寄りの子どもの引き取りをたのみ、その手にゆだねた。

「残り150名の孤児中隊を編成して、8月31日、ハルピン駅を出発した。途中幾多の危険の中を通過させられたが不思議に全員、守られた。松花江の鉄橋が爆破されたため8キロの道のりにリュックに固パンを詰め込み、その上に3歳の女の子を背負って歩くのはたいへんだった。幾度かリュックを投げ捨てようかと思った」

(前掲 井上著18p)

胡廬島から引き揚げ船VO37号にのり、日本の土を踏んだのは、昭和21年10月15日であった。博多で3分の1の子ども達は身寄りに引き取られたが、残りの100名は、井上と行を共とする事になる。

伊豆長岡から舘山寺へ

敗戦の故国は惨憺たる姿を呈していた。子供達が最初に落ち着いたのは、あしたか山の中腹にあった兵舎風の空家屋であった。二橋正夫(元沼津津羊之舎教会牧師)の世話によるものであったと云う。
その間、各市町村への連絡は比較的順調に進み、多くの子供達が故郷の親戚家族に引き取られて行った。
そして、伊豆長岡温泉の旅館「共栄館」を住いとして、愛生学園と称した時は、児童数は約30名から20名へと減少しつつあった。池元幸子は当時を次の様に回想する。

「6年生だった私は、温泉街の中央にある旅館から、毎日地元の学校へ通いました。伊豆長岡での生活は、子供心に久しぶりに人間らしい安心を取り戻した、それは楽しい、落ち着いたくらしでした。井上先生は、子供達を、よく三津の水族館に連れて行って下さいました。」

併し、そこもひと時の仮住いであった。GHQ静岡軍政部の指示と静岡県の方針で、浜名湖舘山寺に移動する事となる。
施設概要の沿革には、次の様に記されている。

昭和22年5月1日、県において舘山寺ホテルに孤児を収容するよう計画し、愛生学園を発展的解消し、子供の家福音寮と改名し事業実施。
県立館山寺。日本医療団から静岡県が社会事業施設(孤児収容)として昭和22年2月12日買収。子供の家に関し、静岡県知事と極東福音クルセード(代表AFデビンドルフ)との間に委託経営について協定が結ばれる。

今日の言葉で云うと、施設の運営形態は県立民営であった。そこに井上の、その後の苦慮と限界が生じてくる。
伊豆長岡から館山寺に移った児童数は、約20名であった。従って、満州孤児の救出という井上の使命は、ここでほぼ使命を終っていたのである。以後、舘山寺子供の家は、国内の戦災孤児によって、どっと満たされていく。

舘山寺子供の家福音寮の生活

昭和23年、小学校6年の時から中学卒業まで、入所児の一人であった桑原元義はこう述懐する。

「先生も、一緒になって、よくこんな賛歌を唄いました。”アーサはおかゆ、お昼は弁当サツマイモ、バーンだけお麦のゴーハン”一番お腹の減る年齢です。ついつい近所の畑をほじったりするものだから、井上先生やほかの職員の人達は、度々謝っていたようです。併し一度も食物が切れる様な事はありませんでした。当時、ララの援助物資で(スキムミルク、罐詰、大豆など)、かなり助かったのではないでしょうか。衣服もアメリカの救援物資ですから、流行の先取りのような派手なもので、私なんか小学生なのにダブダブな背広で行きました。
地元庄内村の婦人会の方達も応援して下さったので、上衣類は最小限度ありましたが下着類には困りました。夏物は、パンツ2枚、シャツ2枚、半ズボン2枚を渡されて、布を当て修理しながら、自分で大事に管理したものです。」

当時、保母であった高田恵美子は、こう記録している。
「あの頃の食物といったらコウリャン、麦、サツマ芋、おかずは切干し大根と味噌汁、たまに出る煮魚の美味しかった事。補修部屋に入ると、おばさんの前掛けに何やらいっぱいついていた。新米の私は不思議に思ってたずねてみた。『これは何ですか』ときくと、それは全部シラミだと云う。私はあやうく気が遠くなりかけたものである。」

(舘山寺会誌第1号8p)

この辺りまでは、戦後間もない社会事業施設の、一般的現象であるかも知れない。併しこれから先は、井上個人の人間性がかもし出す、かなり特異な雰囲気であろう。

桑原元義は子供心の印象をこう語る。
「先生はとても話が上手でした。子供達に聖書の話、満州での苦難の話、とてもリアルに力強く話してくれました。
子供の感性に印象づけられている先生は、一口に云うと、祈りの人であった事です。礼拝堂で本当によく祈っておられました。子供達とも一緒に祈る事もしばしばでしたが、お一人で終日祈っておられる事もありました。時には熱心のあまり、汗を流しながら祈り、その姿に異様なものを感じました。
戦後の荒んだ子供達も、入所してくると、どんな子供でも不思議に先生には心服しました。先生の信念に打たれたのかも知れません。一緒に過ごし、一緒のものを食べ、一緒に風呂に入る。先生をパパ、和子夫人をママ、職員の人達を、お姉さん、お兄さん、と呼ばされましたが、それが少しも違和感を感じない雰囲気でした。先生が外出先から帰ってくる姿を、目敏く見つけた誰かが『パパが帰ってきた』と怒鳴るのです。そうすると、子供達が先を争って玄関に走って行くのです。私は今こうして子供の仕事(精神薄弱児通所施設)をやらせてもらって、あの頃の先生に嫉妬を感ずるほどです。」

福音寮の生活は貧しかったが、心は豊かだった様だ。加えて福音寮の背景である自然は、忘れ難い美しさであった。
「舘山寺の西海岸は素晴らしかった。遠浅の海は夏は天国のようであった。ひもじい思いをしながらそれでも私は、夜中、友だちと泳ぎにいき、夜光虫のとぶ中を気持ちよく泳いだものである。時たま通る漁船の帆先に光るバッテリーにおびやかされ、キャアキャアさわぎながら逃げていったおもい出、苦しかったけれど楽しい想い出ばかり、私の頭の中をかけめぐります。」(前掲、高田恵美子)

これは、自然を懐しむだけでなく、その自然の中でつくられた疑似親子、疑似兄弟姉妹を懐しむ、想いに違いない。

奇跡を生きた人

昭和50年に発行された「現今の奇跡」は、144Pの小冊であるが、日本基督教団赤坂協会の牧師として、彼の信仰者としての生涯を語った、彼自身の証である。この本の表紙に「お前はロバで、わたしがお前の背に乗って行く。心配することはない。ただ、わたしが行けと云うところに行き、語れと云うことを語ればよいのだ」と書かれている。神の臨在と、祈りの実現を確信して疑わず、聖霊に満たされ、神癒を実践する。しばしば、アメリカ、台湾、韓国に渡り、伝道行脚を続ける。
外科医であり、同時に関西聖書神学校を出た牧師であり、同時に一時期、孤児の救済に携わった井上の多面的な人生は、結局は伝道師井上、それも奇跡を生きた事を証するキリストの証人であった。「現今の奇跡」はそれを語っている。
併し井上は、一面、生々しく人間的な、愛すべき性格を、あらわにして生きる人間であった。当時、保母であった松岡和子は、彼への尊敬と愛情を抑えながら、微笑をもってこう語る。

「昭和23年、保母の募集に応じて舘山寺に着き、福音寮に向かう途中でパパに初めて会った時、ちょっと外人かな?と思いました。色白な顔がピンク色で、髪が少し赤っぽくって、真赤なパンツで自転車に乗っていたのです。おしゃれだなと感じました。
パパは、美味しいもの、美しいものが好きでした。人格者らしく、欠陥を上手に隠すことなどできない人でした。感情的で子供達から”鉄板”というニックネームを呈されていました。熱し易く、冷め易いという意味です。
とても人間味豊かで、信仰も、祈りは必ず聞かれるという、純粋で、情熱的で、あか子のような信仰だったような気がします。
その代わり、計算性や計画性は駄目、従って経営感覚とは無関係な施設だったと思います。だから、背後にあったママや、大森圭三郎先生なんか、ご苦労なさったのではないでしょうか」

井上から、その才を深く愛されていた池元幸子は、娘の親父批判の様に、こう語る。
「とにかく型におさまらない方でした。牧師だと思うと、何か、あくが強くて俗っぽくて、それだけに、子供達を形にはめないで、自由に育ててくれたと思います。
話が上手で、地域の学校や婦人会の協力を、しっかりとりつけてしまったのも、パパの人間的魅力だったほうと思います」

井上哲雄は奇跡の証人ではあったが、己の背肉を鞭打つ、総髪求道の徒ではなかった事は確かである。

福音寮の終局

「昭和25年5月のある朝、『アメリカへ行け』とのみ声を聞いた。」と井上はこの著書の中で云う。彼は後事を託し、9月福音寮を後にする。井上がアメリカにいる間に、福音寮の事態は急展開する。概要沿革によれば、昭和26年4月30日 舘山寺子供の家福音寮は湖岸を埋め立てた関係で湿気が非常に多く、保健衛生上悪いこと、遊び場がなくまた観光地であるため子供らの環境上よくないこと等の理由から移転の計画を立てる。
昭和26年8月31日 浜松市に必要な敷地選定方依頼、第一候補地浜松市新橋町にある国有地(大通院跡)が適当である旨回答に接し、その後寺院地元地主等関係者に協力をお願い敷地3,088坪54を確保した。
昭和26年12月27日 建築のため現場説明。

あれよあれよと云う間に事態は進展する。勿論福音寮からは、急遽帰国を要請するが、何故か井上は応じなかった。
今の時はアメリカに留まって、伝道する事に召命を感じていたためであろうが、同時に、県立民営による限界と児童福祉法(昭23)社会福祉事業法(昭26)の施行によりようやく整ってきた行政枠にはまりそうもない自分を自覚していたためであろうか。井上不在のまま、事は一挙に進む。
昭和27年1月8日 敷地内に新築する建物の配置を決めた。
昭和27年3月27日 建物4棟竣工
昭和27年3月28、29日 両日に渡って福音寮入所児童職員諸道具全部新施設に移転。
昭和27年4月1日  名称を清明寮と改名して定員120名に拡充して事業実施。

ハルピン愛生育児院より数えて6年半、井上の孤児救済と、そして子供の家福音寮は、ここに終局を迎えた。

結び

中国残留孤児問題は、同時代を生きた者にとって、殊に当時の戦乱と俘因を、同じ大地で経験した者にとっては、民族の原罪を嫌でも考えさせられる辛い期間である。私は全く偶然な事にシベリア虜因を免れたか、新京(長春)で1年を過ごした。敗戦の年の厳冬、北満からの避難民が、子供を手離している噂を知りながら、私は自分が生きる以上の事を考えなかった。こんな時、人間はすべてそうだと、私はそう思った。
帰国後、浜松に落ち着いた時、そうでなかった事を知った。浜名湖畔舘山寺の、子供の家福音寮を知り、当時30なかばの井上哲雄に出会ったからである。彼の事跡が、どんなに辛酸と困苦に彩られていたことか。現地を関知している私にはただ驚嘆であり感動であった。井上の様な人がいなかったら、残留孤児はもっともっと多かったに違いない。

176号  表彰状
井上哲雄殿 あなたは、第二次大戦末期中国東北地区において、一身の危険を顧みず同胞の救出救済にあたり、また引き揚げに際しては極めて困難な帰国業務に携わり、顕著な功績がありました。
よってその徳行を賞讃し栄誉を永く表彰します。
昭和49年4月15日

外務大臣 大平正芳

井上のうけた栄誉は、この一枚の表彰状である。その折、井上はこう述べている。
「人生には色々の事に遭遇しなければなりませんが、それらのすべては全能の神の聖手の中にあるということです。運命として受け取るのではなく、神の摂理なのです。」

弱冠32歳、井上は動乱のハルピンで、その若さを燃焼した。時代が求め、神がもちい給うた平凡たる、非凡人であったのではなかろうか。
私は、福音寮で井上を助けた人々の若き日を知っている。池元幸子の言によれば、ハルピン愛生孤児院で、井上を助けて子供達の面倒を見ていた大人たちがいたという。当然な事である。ある人物の事跡を語る時、その人物を支えた多くの協力者の、陰のそして実質的な動きを忘れてはならない。
最後に一言したいのは、舘山寺寺子供の家福音寮は、今日の社会福祉法人葵会、養護施設清明寮の、まぎれもない前史であるという事だ。
清明寮に集う若い人々が、辛酸を克服したこの輝かしい前史を思い、今日の事業に、真摯に取りくまれる事を期待し、祈っている。(山浦 俊治 筆)

※ この文書は昭和61年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。