先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

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File 10

清水隣保館創立者〜任侠の社会事業家〜

山田 政吉 氏 Masakichi Yamada

Profile

任侠の社会事業家

 自ら「昭和の次郎長」と自認した山田政吉は、清水の仁侠の社会事業家であった。
 伝統ある家柄の雑穀商、醤油味噌醸造業の山田家に、父政八、母あさの長男として、清水本町に出生した。長じて静岡県立商業学校を卒業後、同市入江町より妻いちを迎え結婚して家業を継承した。
 大正15年10月、突如その醸造業を廃止し、醤油、味噌の小売販売のみの家族の生計を支えるだけの経営に縮小して、社会事業めざして立ち上った。
 この年の12月、内務省の第1回全国児童保護会議に推薦されて出席した。
 昭和2年1月21日、清水市港町2丁目に、私立、清水隣保館を創立、館主となり隣保事業に突入した。
 商人として、39歳の働き盛りの身を捨て切って、「日本古来の美風たる、隣保扶助の真精神を忘れて、物質文明に亡びてゆくとは何ごとかー」と熱叫し、驚く町の人人の中を、啓蒙にかけ歩いた。
 昭和2年11月、清水巴高等女学校を会場にして「児童保護と社会問題」と題し、日本女子大学教授、生江孝之先生を招き講演会を開催、市民の教育啓蒙運動の第一歩とし、以後毎年一回この種の講演会を継続している。
 昭和3年8月、東洋大学、社会事業学科主催による臨海学校が、沼津静浦小学校を借用し、一ヶ月間実施され、児童の心理学、体育、衛生のため、と新聞に報道された。
 この記事に興味をもった山田政吉は、早速現地を訪れ、総務部長の学生、高橋喜代(のち、清水市社会課長)に初対面し、たちまち意気投合し、高橋の社会事業とは、隣保事業とは何か、の専門知識を傾聴し、悲憤慷慨に傾きかけた苦悶の中に、智性による確信を得ることとなった。
 これが機縁となり、翌年には高橋喜代は隣保館に招かれ1ヶ年間実際指導に当っている。
 この年の12月、「内鮮融和親睦会」の結成に強力な援助をして設立させ、市内800人の朝鮮からの労務者の親睦を実現した。
 このことは、大正13年2月11日、6ヶ町村を合併して清水市制を施行し、これによって港湾貿易関係が発達し、労働者を必要としたから移住してくる人々が多くなり、朝鮮からの労務者家族も移住し、市内大曲地区に居住していたことによる。

 昭和4年1月21日、隣保館2周年に当り、山田政吉の思想に共鳴する人々が集まり、共に街頭演説会を各所に開き、静岡県社会課主事、安藤寛も参加しその夕刻熱狂した群衆が隣保館前におしよせた。
 この群衆の中から「隣保館と共に生きようと思う者は残れ」と叫ぶ声があり群集は喚声拍手をもって答えた。
 これが隣保館の援助団体「隣友クラブ」となる動機となった。
 その援助団体は次のとおり
  清水理髪業組合(結髪部も含む)
  清水内鮮同和合(朝鮮人との同和会)
  魚河世岸青年有志
  神農会(露天商組合)
  一般労働者(清水労働共済組会員)
  労働者主婦連(隣保館保育園母の会、中心)
              以上、約600名

 隣保館の掲げた標語は、
 「この世の中は、すべての相互の力により生きてゆくのですから、相互に助け合って共に楽しく、世渡りを致しませう」であり、
 山田政吉自身も
 「人に頼まず、頼まれもせず、ただ自己の信念に逆らう所、何物をも犠牲とし、所謂、権門に諂らわず、名誉に淫せず、社会事業を真精神を基調として、只菅実行一天張りにて、社会改善に精進す、依って世の自発的後援は喜んで拝受するも、有志者の物質的其の他の寄付援助は乞わず」としていた。

 つまり、隣保事業とは、生活苦にあるもの同士が相互扶助して、明るく生きようとするものであった。
 昭和4年5月より実施した、日用品廉売移動市場は朝市とよばれ、八千代橋通りの八千代市、入江町二丁目の木戸市を開き、午前7時より正午まで、月6回行われた。
 これは、小売業者の更正と失業者に対する授産、生産事業、農家の生産品消費の合理化の実際活動であった。
 昭和5年4月には、朴承辰、趙性文、李旦洪と共に、念願の清水内鮮同和会を結成させその専任相談役となり「朝鮮人の父」と別名された。
 この頃、同市船越、玉泉寺住職、皆川新光師は隣友クラブに入会し、市内托鉢行により、隣保館の趣旨を印刷配布し、資金調達に奔走、浄財16円55銭を寄付した。

 昭和6年1月24日、隣友クラブの盛り上がりの勢は、隣保館創立5周年事業にははなばなしく表現された。
 「社会生活の合理化運動に参加せよ」のスローガンをかかげ、午前8時より政吉翁のす好きな陣太鼓を先頭に、若松雄三郎作詩の行進曲歌を合唱し、600名が街道行進し、12名の演説者が、辻説法を行った。
 行進曲歌の一部
  義侠の誉れ 次郎長の
  意気と情けの 血を享けて
  固き誓ひに 倚りてよ
  歴史はしるき 五星霜
 (曲は、煙も見えず雲もなく...の軍歌で、陣太鼓の合図で合唱して歩いた)

 この夜、午後5時からは、市内の栄寿座において社会問題大講演会を開催し、舞楽、舞踊を手始めに講演に移り、清水理髪組合長柴田亀吉、清水内鮮同和会長朴承辰をはじめとし16名が講演し最後に、静岡社会事業主事、斉藤三郎が「訴えざる声」と題して演説し、しめくくりをしている。

 昭和7年6月29日、「失業問題労資座談会」を、清水商工会議所桜上に開催、資本家側社長13名、労働者側25名が参加して意見交換が行われ、10月2日には、清水市労働共済会を結成させ、名誉会長に推され、隣保館の所属団体となった。
 昭和8年5月13日、私設社会事業大会が三重県に開催され、県の推薦により出席し、「庶民金融期間の欠陥改善並に統制する件」を上程、万場一致で可決された。
 昭和9年1月20日、全国私設社会事業大会では、「内鮮融和運動の充実並に統制に関する件」を上程、これも万場一致で可決された。
 同年2月11日、皇太子御降誕奉祝と清水市制10周年記念行事に加えて、隣保館7周年記念行事が隣友クラブが主体となっておこなわれた。
 生活環境の苦しい人人の集まりである隣保館は、労務者達の屋台を作り、大家族の奉祝として市内を練り歩いた。
 特に目立ったのは、朝鮮の服装で朝鮮の労務者家族50名が300名の中に加わっていたことであった。
 この屋台も、町内毎に街道で奉祝演説を行い「隣保扶助の観念を発揚し、その実行を普及する」の内容で、6名の弁士がつきそって熱弁を振るった。
 同年6月13日、山田政吉が尊敬、敬慕し「吾れ身がわりとならん」と絶叫した「任侠の士清水次郎長翁42年記念会」を市内梅蔭寺に開催し法要ののち、「次郎長翁追憶座談会」に移り、歴史家、文芸家、教育家等を招き追憶共養としたが、目的は「任侠は日本労働者の魂なり」を強調することであった。
 昭和10年11月、第4回中部日本社会事業大会が、静岡県主催で開催するに当り、「私立清水隣保館事業概要」を冊子として参加として参加者に配布した。

 昭和12年以降は、日中戦争が勃発し、すべてが統制され、社会事業関係も、「軍事援護事業法」に一本化されたので、自由闊達な活動をした山田政吉も抑圧された形となった。
 しかし、軍人留守家族、遺家族のための授産私設の設置、同市大曲に設立して「内鮮同和会保育園」の開園への助成金が特筆されるものであろう。
 昭和20年4月、清水市の空襲により、港町にあった隣保館は全焼したので旧庵原郡両河内村公会堂に疎開し保育事業を継続した。
 同年7月の大空襲と艦砲射撃により、市内は灰燼に帰し、昭和23年12月21日松井町に、厚生省の要請もあって私立隣保館保育園を新築移転し、乳幼児保育に専念し現在に到っている。

 隣保館の事業は、保育所の児童保護、医療救護、人事相談、生業補助、職業紹介、融和事業、教化事業と、まことに広汎囲にわたっていることが、これをささえたものは、労務者達の団体で組織した「隣友クラブ」であったことは特色と言えよう。
 この事業経営のかたわらで、方面委員19年、司法保護委員14年、市議会議員15年を勤め市民生活の安定に寄与している。

 昭和52年1月25日、全国社会事業界、保育事業界に蛮骨精神で名をはせた山田政吉は、89歳の長寿を保って逝去した。
 数ある表彰歴の中から三項を拾って見る。
  昭和38年 藍綬褒章
  昭和41年 勲五等双光旭日章
  昭和52年 正6位に叙せらる

 昭和58年8月8日に逝去した妻、いちも昭和41年に勲六等瑞宝章の叙勲を受けている。
 なお、醸造業の商家を捨てて、社会事業に貢献するようになった動機は、大正末期から昭和初期時代の不況にあえぐ人人、とくに米騒動は、米穀を取り扱った当事者として、大きな衝撃でこれが原因したことと思われる。
 また、信念を支えたものに、青年時代三保の最勝閣(明治34年設立昭和3年東京に移転)にあって、日蓮の国家主義者、田中智学に心酔して「国柱会」に入会、生涯この信仰を変えなかった。
 遺言により、葬儀は国柱会で執行するよう明示してあったので、それにより遺骨は、山田家菩提寺の浄土宗実相寺と、東京都江戸川区の国柱会本部「妙宗大霊廟」二分して埋葬した。

 今も話題となっていることは、
 昭和初期の不況時代に巡回衛生婦(看護婦、助産婦)北条きりを伴って、極貧の家庭を訪問しては、見舞歩きしたこと。
 その頃の本町、山田家の門前には、毎朝失業者、放浪者が列をなし、米、金品の施与の手伝いした家族は疲労困憊したこと。
 商人であり、商業学校の出の山田政吉であったが、経理にはうとく、経理監査には大福帳で押し通り、両ポケットから、領収書類を鷲づかみにして、ばらまいた、とか、演説好きの人ではあったが、実は訥弁で、そのかわり、手を振り、身をふるわせる動作で訴える姿が人人を引きつけ感動させたこと、など、さまざまな逸話を残している。



※ この文書は昭和59年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(永田 泰嶺 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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