先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

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File 11

見晴学園創設者〜民生委員のリーダー〜

大野 虎雄 氏 Torao Ono

Profile

 大野虎雄氏は明治36年1月21日生れ、成蹊実業専門学校(現在の成蹊大学)卒。沼津市は香貫山の麓に居住。

 県内民生委員活動のリーダーとして、特に理論的な活動推進役として多くの方々に高い評価をうけられたことは著名である。

旗本の後裔

民生委員のリーダー

 大野先生(と生前およびしていたのでそう書かせていただく)は旧幕臣それも旗本の出で徳川家と共に駿府に移住した家柄であることをよく話しておられた。胸の病まれためか右肩を一寸いからせていつも資料の入った風呂敷包を手にされ、近よりがたいきびしい表情で帽子を愛用しておられ、まさに「先生」の風格をおもちだった。沼津市民協で大野会長のもと婦人部長をつとめられた山本常子さんは次のような表現で大野先生の人柄を語っておられる。「先生は、一見気難しく、近づき難い様に見受けられますが、誰にでも公平で、親切で、依頼されて引受けたことは最後まで責任を持って解決して下さる、心温かい誠実な方でした。自己の利益にのみ汲々として不幸な人を顧みない、冷たい人の多い世相の中で、私欲を捨ててひたすら社会奉仕に人生を捧げ尽くした県下民生委員の範であられた。」

生涯奉仕の人

 大野先生は、生業をもたれず文字通り生涯を社会奉仕に尽くすことをもって生き甲斐とされた。その具体的なものとしては、民生委員、児童委員、市民協会長そして県民協会長も務められたほか市社協副会長、調停委員、見晴学園の法人理事長、そして沼津史談会を創設されその会長をつとめられるなど奉仕的な公職、団体の役員を数多く重ねられ特に社会福祉のため地域の先頭に立たれた。その功労に報いるため市社協葬として最後を飾られた。まさに無報酬を報酬とされた奉仕の人と言える。沼津市民協副会長として大野会長と苦楽を共にされた大島佐重さんはその率先垂範ぶりを次のように表現しておられる。「先生は責任感が強く誠意と親切の人であって、悩みを持つ多くの相談者が常にその門をたたいていた。民協の仕事にも極めて熱心で、平素は勿論のこと、病気入院中でも書類を病院に持込み民協例会の資料をつくり、少し気分がよければ医師の許可をとって会議に出席し主催され、常人には考えられない無私の行動であった。思うにこれは武士の血をひく根性に責任感が支えとなっておられたのであろう。戦後の荒廃した社会情勢下でのその奉仕精神には頭の下る思いである」と。

見晴学園と民生委員活動

 大野先生に関連して特記しておきたいことは、見晴学園の創設に力をつくした県下東部民生委員協議会の活動である。昭和30年8月19日、三島市、沼津市など東部民生委員常務委員会の名において県内初の民間法人による精神薄弱児施設を三島市に設立することを決議し、ただちに資金づくりに活動を開始するのである。当時精薄児施設(昭和59年執筆時)としては県立の磐田学園だけで、施設を要望する関係者の声をうけて民生委員が自ら組織活動として施設づくりにとりくんだのである。庶民の生活困窮の姿にみなねて救護法実現に立ちあがった全国方面委員の活動にもくらべられる民生委員のすばらしい金字塔である。このためこの学園を経営する社会福祉法人函翠会の理事長は民生委員協議会の会長が就任しており、大野先生も二代目理事長として昭和33年5月13日より46年10月11日まで奉仕している。学園長をされた植松利作さんの記憶によれば「先生は持病のためもあり、あまり出勤されず、書類の決裁も自宅でされることが多かった。しかし、理事長在任中に精神薄弱者更生施設見晴寮の建設に着手、その実施計画の実現のため努力されると共にこの建設中に施設内で伝染病(セキリ)が発生し、園長まで入院する始末となり、施設竣工式もできなかった状態だった」という。民生委員の組織的な協力により実現した福祉施設はこの前にもあとにも珍しいものであり、世帯更正運動と世帯更正資金の創設に力のあった井田可吉会長時代の活動とならぶ民生委員制度の父笠井先生出身の地である本県の民生委員活動の快挙であることを特記しておきたい。そして大野先生もそのうねりの中心にあられたことをあげ、これからの地域福祉活動の推進役として民生委員がその実戦をとおして着実に位置づけられることを期待したい。

幅広い人柄

 大野先生は日頃は謹厳そのものという表現がぴったりであったが、反面酒席ともなれば自らは酒をたしなまないにもかかわらず、美声をはりあげての面白い(艶のある)小咄しや替歌などをよく披露された、と大島佐重さんは追憶される。裾野市の日吉茂作さん(大野先生のあと県民協会長になられた)は「県民協出席のため沼津駅でお待ちするといつも奥様が見送っておいでになる。前からニ輌目か後ろからニ輌目が常席だった。ホームで必ず薬をお飲みになる。車中、心配ごと相談や裁判所の調停などの具体的な話をもとにくわしく助言を受けるのが例だった。」となつかしんでおられ、更に「奉仕の活動にこれほど日夜と問わず献身された方はいないのではないか」と激賞しておられる。小生も四国の地の全国民生委員大会出席のため宿を取った先で夕食のあと、おや、この先生が、と思うほどお色気も含むお話をうかがったことを想いだす。実に幅広い性格の持主であられた。

 大野先生は昭和46年9月30日、病のため逝去された。福祉の功労をもって藍綬褒章、従6位勲五等瑞宝章を受けられる。

 先生が表された「沼津兵学校史」は今も関係者から珍重されており川村晃の芥川賞受賞作品の基本になったとうかがっている。

 本稿執筆後に沼津市社協石井局長(昭和59年執筆時)さんの御高配による資料「沼津市民生児童委員誌」のなかで現県民協会長土屋さん(昭和59年執筆時)の筆による名文を拝見しました。そのまま転載させていただきたいほど立派なものです。おゆるしをいただいたその一部を次にあげさせていただきます。

先生の最後

       民生委員「大野虎雄」
                                         県民生児童委員協議会会長 土屋光義

 「わたしはこの仕事で駄目になってもいいんだよ」先生は静かに鉛筆の手を休めずに、ぽつりとそう言った。布団の上にあぐらをかき、肩を体の前の方に丸くうずくらまし腰をがっくりとおとしている。先生の枕元には小型の酸素ボンベと吸入器がいつでも使えるようにおいてある。その横には、毎日くるたくさんの書類や書状が重ねられて先生の処理を待っている。体力が弱っているせいか少しも処理がはかどらない。息が苦しくなると片手をついてゴロッと横になり吸引器の漏斗を片手に持って口に当てて、疲れた様子で静かに目をつむっている。このような空白の時間に先生は何を考えておられるのかと私も心の中であれこれと想いめくらす。気配でわかるのか奥さんがすぐきて「何かしましょうか」とたずねると、別にしてもらうこともないのか、だまって目をつぶったままでいる。30分もすると落ちついたのか、やおら起き直って書類に目を通し始める。奥さんが「土屋さんにやってもらったらどうですか」と案じながら言うと「うんそうもいかないしなあ」と相変わらず書類の処理をしていくのである。「先生そんなことしていたら命がありませんよ、私にできることは何でもしますから」私が真剣な顔でおそらく声もそれに似あう声で言ったのだと想う。その答が冒頭の言葉である。先生は今度の再発には密かに心の中で期するものがあったのではないかと、私には思えた。9月28日の夜は民協の月例常会であったが、奥さんより先生の病状がよくないからといわれたので、私の独断で今夜の常会を中止にしておいて、夜連絡のため先生のお宅に伺った。先生は肩が動いていて切なそうであったが私を見ると、おだやかな顔で常会の時に委員に配布する書類をいちいち説明して渡してよこした。「間違いのないように頼むよ」と言われた。奥さんは枕元につききりである。私は翌29日文化会館で午後7時より8時30分まで常会を開いて先生の指示を皆に伝えた。病状もその時に詳しく話しておいた。先生はこの日杉山病院に入院された。私は常会が終わってその足で先生のところへ報告に行った。先生は何ごともないような顔で眠っておられたので奥さんに常会を終わったことを話して帰宅した。その翌30日病院に行ったら非常に悪いと言われた。先生はよく眠っておられた。酸素吸入をつけたまま、私から話すこともできない、先生から聞くこともできない。既に目に見えない薄幕が先生と私達を遮っているように思える。私は午後8時頃、先生の様子が少し落ち着いたので家に帰った。帰ると同時に奥さんより「土屋さん早く来て下さい」といわれてそのまま車をとばして病院に入ったが既に臨終であった。昭和46年9月30日午後8時47分、行年68歳である。病名狭心症、先生の遺言は家事については一言もなかった。唯自分のたずさわっている公の仕事のことだけであった。以下奥さんの話である。『史談会のことについては、鈴川さん、山田さん、市川さんの方々に来ていただいてよく頼んでおりました。28日には大島さんに民協のことについて細かく頼みました。

 臨終の約30分くらい前のことでしょうか。突然に目をあけて、「今日は調停があるからいかなければならない」というので「そんな体ではいけませんから、ほかの日に延ばしてもらいましたよ」と言いますと安心したようでした。そしたら今度は「土屋さんにようく会議のこと頼んでおけよ」と言いましたので「わかりましたよ」と耳に近ずけて言いますと、それも解ったようでした。これが話の最後でした。それから間もなくなくなられました。

  <中略>

民協への提言

 先生が最後と思われた意見書を発表したのは昭和45年度関東甲信越静ブロック民生事業研究協議会へ参加した時、先生は第3部会に属し静岡県提出意見を席上発表されたのである。

 これを全文ここに掲載すれば、みなさんの職務遂行上よりよい指標を与えるものと確信しますが、頁数上無理と思いますので要点を掲載しておきます。意見書は4つの項目に分けられています。

 1 市町村社協の育成強化をはかるにはどうしたらよいか。
 この内容は7つに分けて書いてありますが要約すると、(1)社協役員の構成及び役員の選出(特に会長は民間からの選出を強く主張している。)(2)事務局の強化、(3)問題別部会の設置、(4)財源の増強とその方法

 2 民生委員協議会運営刷新強化をはかるにはどうしたらよいか。
 これも内容は7つに分けて述べている。(1)総務に適格者の選出、(2)民協運営の内容について(民協は報告、研修、困難な問題の共同研究討議等の場)、(3)委員の定数のアンバランスを正すとともに合理化の促進。

 3 共同活動を効果的に実践するにはどうしたらよいか。
 これは5項目に分けて述べているが、その中で注目されるのは、(1)市民協は民生委員の基本的活動目標と具体的活動目標とに分け、前者にあってはその市独自の活動を展開し、後者にあっては全国共通課題を取り上げて実践する、(2)地区単位民協は困難な問題にして解決が地区のみでは出来難い場合は、これを社協に持ち込みその機能によって処理する。

 4 指定民協事業を成功させるにはどうしたらよいか。
(1)指定された民協がその成果を上げるための具体的な方策が示されている。
 この意見書をみると現在の市民協の基本的なあり方、具体的活動、委員の日常活動、域は大きく県民協の活動の基本的な指針も全て先生の意見書のとおりに現在活動していることがわかります。しかし先生の意見どおり実現されていないものが一項目あります。それは先生の重点施策の一つに?省略、?世帯更生資金(現在の生活福祉資金)貸付対象に高利債の借替がないことは矛盾である。仮に高利借金の原因がどうあろうとも、しあわせを高めることには変わりはない(原文)既に昭和45年の意見書の重点施策として県に強く実施を献言している。苦しむ原因がどうあろうとも、しあわせを高めるための方策をとってほしいというのである。

 慈恵的慈善事業から慈善社会事業と移り戦後は社会福祉事業と革命的な変遷を遂げて、それにつれて、方面委員も社会福祉のメカニズムとして、社会に、人に、奉仕することになりました。国民の権利も憲法第3章にあるように基本的人権の保障により参政権、自由権、社会権等の権利は永久の権利として国民に与えられるようになりました。生存の権利も憲法第25条によって確固不抜となり、それに伴う生活関連法、福祉六法等重要な法律や制度が逐次施行されて国民の生活内容はだんだんと充実してきました。

 方面委員の戦前における重な職務は、生活困窮者及び児童の保護でしたが、戦後の職務は近代社会への急速な脱皮で、民生児童委員の職務も幅広く奥深くなり、相当高度な知識と経験を必要とするようになりました。この重要な過渡期に先生のような指導者を得たことは、沼津市の福祉事業にとって誠に幸いであったと痛感いたします。この先生の精神的並びに教導の遺産は、大島佐重氏、ならびに全委員に受け継がれて、福祉社会への奉仕に生かされております。

  <後略>

<資料> 昭和54年3月31日 沼津市民生児童委員協議会 発行
沼津市民生児童委員誌



※ この文書は昭和59年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(志田 利 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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