先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

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File 17

救らい活動に献身〜民生委員・保護司〜

飯野 十造 氏 Juzou Iino

Profile
 救ライ活動で知られる飯野十造牧師は静岡市沓谷1丁目29番地 静岡其枝基督協会で昭和42年4月24日、81歳にて天に召された。
 藍綬褒賞を受章され(77歳)勳四等瑞宝章の受章(79歳)を受け、没後には、従五位に叙せられている。

<飯野十造氏の記事掲載に際し、事務局からのおことわり>

 ここで取り上げる飯野十造氏についての記述は、昭和61年に執筆されたものです。
 昭和61年当時は「らい予防法」廃止前であり、ハンセン病患者や元患者の方々に対して隔離政策がとられていた時代でした。
 また、飯野十造氏が県内において献身的に活動されたのは、大正から昭和初期のころでした。
 平成8年の「らい予防法」廃止によりハンセン病患者や元患者の方々の人権は回復され、平成13年の「熊本判決」により隔離政策に対する国の責任が認められたことは、御承知のとおりです。
 飯野十造氏の記事は「隔離政策下における救らい活動」を記録したものとなり、一部に権利侵害を良しと解釈できる記述がありますが、活動がどのように行われたかを事実として残す必要があると考え、当時の文書をそのまま掲載いたします。御了承ください。

平成23年7月 事務局追記




生い立ち

 飯野十造は、明治19年1月25日、群馬県群馬郡古巻村有馬(現渋川市)にて、父藤三郎、母カツの二男として農家に誕生したが、のち同郡明治村に転居して、精米、米販売業の営業をはじめた。
 8歳にして母の病死に会い、少年時代に大きな衝撃を受けている。
 16歳、家族に告げることなく、ひそかに海軍を志願し、横須賀海兵団に入隊、日露開戦となり、旅順港閉鎖作戦に参加するが、発病したため横須賀に護送され入院となる。(18歳)
 20歳のとき、英国に依頼して建造中の軍艦鹿島が完成したので、その受領要員に選出され、ポーツマス軍港に出張を命ぜられた。
 明治39年のことであるから、印度洋から南アフリカの南端、ケープタウンを回港して英国に到着するので、相当の日数を要したと思われる。
 この期間中、民宿していた英国の婦人よりキリスト教の感化を受けたことが、飯野十造が生涯キリスト者として生きる端緒となった。
 帰国後同郷の田辺熊蔵氏(前、前橋老人ホーム院長)と知り合い、すすめにより救世軍に傾倒し、24歳で海兵団を除隊、救世軍の士官学校に入隊した。
 入隊後、東京本郷、宇都宮などで伝道していたが、自分の宿舎に乞食を泊めて保護していたことが発覚、牧師たちと意見が衝突して救世軍を去ることになった。
 27歳、聖書学院中田院長の研究生となり著書の手伝いをしていたが、院長にその手腕を買われ、その頃、院を訪れた、山形県出身で東洋宣教会神学校卒業の長野ますを妻にと奨められ結婚する。


熱烈な伝道

 好伴侶を得た飯野十造は、直ちに横浜市長島町の貸家で、猛烈な伝道活動を続け、救道者が一ヵ年で1,100人に達したと言う。
 若さと、信仰による情熱をたぎらせた伝道生活であったが、無理がたたり健康を害して静養を止むなきに至った。
 大正5年(30歳)、気候温暖な静岡市が選ばれ、転地療を兼ね、メソジスト教会の世話にて、静岡市新通に講議所を開設した。
 同町の薬局主、伊藤延吉氏の協力により、其枝キリスト青年会を創設して伝道に努めた。
 静養先においてさえ、熱烈な伝道にいそしむ姿に多くの人々はひきつけられて信者となった。
 この様子を見た、外国ミッションから派遣された宣教師達はこれを羨やみ、無教会地区である、島田市大津に追いやり、借家住いの伝道が始められた。
 ここにおいては、加藤弘造氏の支援協力があって、教勢が次第に進展していった。
 しかし、若い有志達の切なる要望により静岡市に戻り、鷹匠町一丁目で伝道をくりかえした。
 大正11年(36歳)のクリスマス夕べに、耐えて耐えてきたものが昇華し、独立宣言を敢行することになった。
 メソジストと快別(けつべつ)し、「独立静岡其枝キリスト教会」を創立、外国宣教師に束縛されない、外国の金銭に左右されない、日本人による日本の教会を建設した。
 ついで、静岡市と富士宮市に「人事相談所」を開設、其枝婦人子供服女塾と生産部も発足させた。
 大正14年(39歳)12月、安倍川の河原に、ライ部落を訪問、クリスマス祭を催して初の慰問を実施した。
 これが飯野十造の生涯をかけた一大事業につながるライ患者救済のクリスマスの夕べとなった。


ライ患者との出会い

 静岡県にて、ライ病患者の救済は、明治20年(1887)テストウィッド神父が、県内の患者が街路に彷徨(ほうこう)している実態に驚き、御殿場市に神山復生病院を開設したことにはじまる。
 明治40年、日本国内のライ患者は、調査により23,315人と判明し、ライ予防法が布告された。
 大正13年、日本救ライ協会が結成されたのに呼応して飯野十造の決意がなされ、「日本救ライ協会静岡支部」を設立、救ライの実行に踏み切ったようである。
 個人的にライ患者と接触したことの記事が「あかし人」第三号に記載されているので一部をそのまま転載して見る。

癩青年との出会い

 「或る日曜の晩」集会が終わったあと、一人の青年が今晩泊めてほしいといい、「救い」について話し合っているうちに、今晩一夜だけ先生の床の中に入れて抱いて寝てくれませんかと切り出した。
 「一緒に休みましょう」と答えた私の目の前にあらわな両手が出された。
 ライ患者だった。
 「彼は驚天した。ああ、シマッタと心の中で叫んだ、彼はその手を見せられた時、同衾(どうきん)する勇気も、愛の心も失せてしまった。
 心中に働いているものは、恐怖と嫌悪とであった。
 されど一方に、神の愛とキリストの忍耐の働いていることを認める大戦争が開始された。」と率直に述べている。(以下略)


安倍川のライ部落

 安倍川のライ部落の状況については、清水市在の、元清水市秘書課長、山川与四男氏の記事があるので要約して見る。

 わたくしが、静岡師範学校五年生の頃、寮舎の舎監長より、飯野先生の安倍河原の救ライ活動に協力することになったから承知してほしいとの依頼があった。
 それはどのようなことであるのかと、飯野先生のあとに続いて実際を見に出かけた。
 安倍川のミロク橋のたもとに近く、安倍川の義夫(ぎふ)の碑が建っているあたりから入り、堤防に出て下り、鉄道線路の方向に近づく中程に、堤防が二重にわかれ風よけのびょうぶになっている土手があった。
 そのススキの原の中に小屋が五つ六つ点在していた。
 むしろ板囲いで俗に言う乞食小屋であった。全体で十七、八人で夫婦や子供づれもいた。
 日露戦争に参加した満州帰りの元軍人がいて、人さし指の第二関節までとれているのを、ススキの葉でそれをぬぐいながら、この病気になれば、軍人であっても何も彼も終わりです、と語っていた。
 秋雨のそぼふるススキの川原には、赤く血のにじんだ脱脂綿が花の咲いたように散らばっていた。
 先生はいちいち病状を見て廻り、出産間近の夫婦には、「生まれそうになったら、至急連絡をよこしなさい、看護婦をつれてきますよ。しかし、生まれた子供は離しますよ、そこはわたくしを信じてくださいね」と静かな口調で話すのを聞いていた。
 この対策
 第一に、この川原の人たちを至急施設に送り込むこと、それを当人たちによく納得させること。
 第二に、その日がくるまで、衣食を整えてやり、物乞をして歩かぬように安心させること。
 静岡師範学校の寄宿者は、当時460人位の人員がいて、食事の余りを支給することに決し、飯野先生の依頼に答えることにした。


施設に無事収容

 昭和4年4月に至り、瀬戸内海の長生園の施設に送ることがようやく決定した。
 患者も懇切な飯野先生の指導により、安心して列車に乗ることとなった。
 静岡駅に普通旅客列車が到着し、患者用の客車が一輌連結してあり、一人ずつ客席に落ちつかせた際の感激は今も忘れられない。
 ただおしいことは、患者の喜三郎夫妻と子供が昨夜逃亡してしまったことであった。

(この項、「涙流」安倍川の救癩、山川与四男の文を借用した)

 大正14年に安倍川のライ部落を訪問してより五ヶ年が経過しているが、衣食、医療、テントを運び慰問した飯野十造夫妻の聖業がみのり施設に無事収容を実現したことは驚異であった。

 この後については、限られた紙面もあるので年代的に記載してみるが重要と思われる項目にとどめた。


その後の主なあゆみ

昭和 2年 静岡市の茶商の協力を得て、全国ライ療養所にお茶の寄贈をはじめる。
昭和 6年 安達内務大臣より表彰される。
昭和 8年 満州ライ予防会創立、この年皇太后陛下より銀製花瓶下賜
昭和10年 満州国万家山領関子にライ患者収容所設立
昭和20年 静岡市空襲して、音羽町教会全焼、不発弾により実子2名爆死
昭和23年 マッカーサー元帥宛、戦犯の助命の書簡を送る。
昭和24年 県民生委員、司法保護委員委嘱さる。
昭和28年 世界連邦第5回総会に日本代表として出席
昭和29年 久保山愛吉の死を通じて、水爆禁止と世界平和をアピールする。
昭和32年 飯野ます夫人、救ライ事業に尽したことを賞して県功労者表彰を受ける。

  涙流―飯野十造の信仰と生活―1974年2月3日発行
   編 者 静岡其枝基督教会 飯野十造伝刊行委員会
   発行所 静岡其枝基督教会          (以上を参考した)



※ この文書は昭和61年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(永田 泰嶺 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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