先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

静岡県社会福祉協議会 ホーム > 先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~ > File20 安居院 勝一 氏

File 20

社会福祉法人静岡隣人会創設者
〜授産所と保育所に執念〜

安居院 勝一 氏 Shoichi Aguin

Profile

はじめに

   「舌代 安居院勝一我れ一介の洋服仕立職にて無学の者なり。
     昭和17年より本県に於いて、社会事業(授産場)を設置運営に従事始めてより、
    昭和52年1月休止届けを提出するまで、35カ年間社会事業法授産所を守りたり。
     今は当時よりの同志も世を去り、我れ1人生き残りたり、
    よって本県の授産所のあゆみを書誌して置かんと想ひたるなり。
                            昭和60年乙丑春 八十安翁(花押)」


 以上の文は、安居院勝一が県社協に保存してほしいと届けた、授産場に関する書類の中の筆墨で書かれた一巻の書の書き出しである。
 その巻紙の表紙の部分は赤の綿織で、開巻して見ると長さ11メートルに及ぶ。
 舌代とは見なれぬ文字となったが、向上にかかわる簡単な挨拶とか、内容の一部を摘出してのべることで、いかにも明治男らしい書き振りである。
 その次に全書があり「日本社会事業史」から転載分が続きその次が、明治時代の授産事業の説明になっている。

 「明治5年、陸軍設置明治5年、陸海軍設置並びに徴兵令の公布にともない、その軍装備品等官給品の調整を防貧対策として授産場に優先発注することとなりて、各地に授産施設を設置するに至り公的施設となる。
 その後、日清、日露の戦争により益々授産施設の急増となりたるなり。」(以下略)

 現在の辞書では、「授産所は技術を教え、内職就業の便を図る施設」とあり、場が所となっている。
 授産事業が軍関係からの委託事業の形となり、昭和に入っては満州事変、太平洋戦争となり軍装品調製に追われ、各市町村も授産場設立に拍車をかけさせられた。
 戦時中の全国授産所は、2,500ヵ所で、静岡県は60ヵ所であった。
 授産場に就職する者は、軍人遺族や傷病軍人等が優先されたが、一般就職者には、徴兵徴用が免除された。
 当の安居院勝一も、居合武道の教士であり壮健な体格であったが、兵役は免れていた。

安居院家について

 安居院は「あぐいん」とよぶのが正しいようである。
 安居院は最初、貴族や皇族の住む寺であったという。
 奈良の浄土宗本願寺派の寺で、江戸時代より特に知られたのは、節談説教の家元であったことである。 節談説教は現在の浪花節(浪曲)に転化したもので、その節まわしは同じ系統で、明治初期まで続き、説教師は安居院の寺で免許をうけなければならなかった。
 安居院勝一は、明治38年9月6日、神奈川県にて、二宮尊徳と郷里を同じくし、父、高橋米吉、母、りつの三男として出生した。
 明治45年1月26日、同郷出身で親戚に当たる、安居院房五郎、同人妻とく、が静岡市本通5丁目に居住していたが、実子に恵まれなかったので、勝一は7歳にして養子縁組した。
 房五郎は洋服仕立職人であったが、先祖より、二宮尊徳の報恩運動に参加していた。
 静岡県遠州地方に報徳社を発展させ、駿河、庵原村杉山(静岡市清水区)に、駿河東報徳社を発展させたのも房五郎の先祖、安居院庄七、浅田勇次郎の兄弟であったと「静岡県の歴史」に記載されている。
 少年時代より勝一は、養父の報徳精神の薫陶を受けつつ、大正9年、晁陽中学校を卒業ついで、横浜市の洋服裁断研究所にて修業、技術を身につけて帰静した。
 養父、房五郎は、静岡市茶町に在住の頃は洋服仕立職であったが、本通5丁目に転住してからは、既製服を扱う大店舗を構え、店員、職入を採用して開店した。
 昭和3年、勝一は、23歳の若さで、静岡既成洋服商業組合の役員に選出され、以後県内の指導的立場を継続し、県下の総代ともなった。
 昭和17年、財団法人、横須賀海軍隣人会、静岡県支部が設立され、房五郎は県支部長に、勝一は授産指導部長に任命された。
 隣人会とは、海軍省関係の全国授産場に命名したもので、記章まで定めてあった。
 巻物の中の記録を次に転載してみる。

 「昭和20年10月、我が勤めたる海軍隣人会も解散を命ぜられたり、よって独立を決意し、会長たる、岩辺季貴海軍中将に願い、隣人会の名称及びマーク使用の許可を頂きて、静岡市に於いて独立する準備にかかりたり」

 現在も静岡隣人会保育園の記章はこれを使用している。
 昭和17年当時の、海軍隣人会授産場は、静岡、沼津、清水、焼津、島田、金谷、鷲津の7施設が記録に残っている。

終戦後の授産場

 昭和20年10月、マッカーサー指令により、解散を命ぜられ、隣人会静岡県支部長、安居院勝一は、軍との公的な授産場と決別、最後の処理を見届けて終わった。
 以後静岡授産場を自ら創立して所長となり、昭和23年、財団法人静岡県隣人会を設立、保育園と併設して園長所長を兼任し大きな発展を期した。
 ただし授産場は、米国の占領政策により廃止の方向にあり、厚生省もこれに随う情勢にあったので、勝一は率先してこれに抗し続け、県内に残った45の授産施設の県連盟結成をよびかけ、尽力の結果設立されて常任理事に選出された。
 昭和25年、授産所整備要項により整備され、県内16ヶ所に減少した。
 昭和37年、山形春人が初代会長として授産業界のリーダー格であった弁天島同胞寮も閉鎖され、17年間の歴史を閉じた。
 巻物記事中ここのみは筆太に書かれ、

 「社会事業法適用の終戦以来の施設も、我が隣人会のみとなる。誠に残念の至りなり」 と記されている。

 昭和51年の項では「県授産代表者会議、委員長、安居院勝一、委員長の職を辞し、坂下八郎氏(精薄者授産施設長)が新委員長に決定」と記され、「昭和52年1月15日、静岡隣人会授産所、休止届提出」で終わっている。
 最後の署名捺印の前に「我れ授産事業に命をかけて今日になる」のとどめの一句がある。
 今は遺書となった貴重な巻物に関するものであったが、この中に保育園長に関するものは記載されていない。不思議に思うのであるが、それは程に授産事業に、情熱と執念を燃やし尽くしたのであったであろう。

保育園長としての人柄

 保育園長としての略歴は別掲(HPでは省略)にある通りだが、昭和33年、静岡市私立保育所連盟の初代会長に選任され、同市私立保育所振興会設立に奔走、常務理事を務める など、保育園関係でも功労者であり長老格であった。
 風貌はピンとはねたカイゼルひげを蓄えてはいるが、いつも温顔で人に接し児童に接していた。
 洋服屋を自認していたのに和服が好みで、正月とか、研修会等には羽織、袴の出で立ちで出席していた。
 ところが夏などには、時々半裸で「裸の王様」で園庭に現れ、園児とたわむれて遊ぶ園長でもあった。
 立派な体格であり、そして優しい心やりの園長を「気はやさしくて、力持ちの桃太郎さん」と父兄にも親しまれていた。
 また、園児生活に落ち着きがないと言うので、座禅の指導もした。
 機智に富んでいて冗談まじりの座談が上手で、会合のたびに楽しい雰囲気をかもし出してくれた。
 保育園の県の指導監査の際、指導されて答弁に困却した時「あ!それはグリコの看板だ」と両手をあげたと言う逸話もあり、園の職員達も失敗すると「グリコの看板だ」と真似が残ったと言う。
 飄逸磊落な性格でありながら、朝の出勤は職員よりも早く、夕は終園後自宅に帰り、午後7時頃再び園に現れて、火気戸締まりを見て歩くのは日課となっていた。
 洋服の職人あがりだと言う自分を卑下していたのか、保育園内容については、主任保母、保母を信頼し一切まかせ切っていた。
 保母達はその信頼を酬ゆるべく努力し、職員間に問題はおこらなかった。
 保母達の慰安旅行の費用は園長個人がまかない、和服の胴巻の財布から支払われた。旅行中、ある保母が過ちで旅館の表戸の大ガラスを破損させた時、園長自身がお詫びし、保母には一言の小言もなかったと言う。
 余技の居合道と詩吟は、保育園のホールをそれらの団体に夜間貸与したことが原因しているようであるが、居合道で刀剣を振るさまは勇壮で、祭典や県護国神社で奉納披露が行われた。

おわりに

 家族は養子であったため、養父養母によく仕えたが、養父母も一人子の勝一を坊ちゃんとして大切に養育した。
 酒豪だったから、会議のあとの宴会で酔いつぶれることがしばしばあったらしい。そのような時、養母のとくが訪れて、「勝」と一声呼ぶと飛び起きて、頭をたれて帰宅したと話題になっていた。余興にも長じていて、羽織りを裏がえして前に着ておどる「朝鮮と支那の境の鴨緑江」は得意中の得意で席を賑わした。
 昭和3年、静岡市八千代町の素封家、高橋家の長女、とし江と結婚し、三男一女に恵まれたが、静岡大火の昭和15年、家を失い、長女を疫気で失った。この頃から保育園設立の構想を持つようになったらしい。また、昭和54年には、長男勝之亮50歳に先立たれる痛恨事に見舞われた。
 夫婦の仲は人も羨むほどで、外出した先々で「かあちゃんが待っている」「かあちゃんにすまない」とくり返すのが癖で、冗談とは聞いていたが、それが不思議に友人達に温かい気分を与えてくれた。
 県社会福祉事業にたずさわってくれた、明治生まれの施設長を次々に失ってゆくなかで、張りのある男らしさの、老骨の人、安居院勝一は、保護司、園長、授産所長に一生を捧げ、社会福祉功労者として勳五等瑞宝章を胸に飾り、昭和62年5月1日、忽然逝去した。



※ この文書は昭和62年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(永田 泰嶺  筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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