先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

静岡県社会福祉協議会 ホーム > 先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~ > File21 木全 大孝 氏

File 21

遠州仏教積善会理事長
〜地域に根ざした社会事業家〜

木全 大孝 氏 Taikou Kimata

Profile

国際社会福祉会議での指摘

 昨年(昭和61年)8月、東京において国際社会福祉会議が開催されたが、それに出席した当施設の職員の一人が、次の様なレポートを書いてくれた。タイトルは「なぜ反核運動の中核にならないのか」である。

 「あらゆる国々に共通していえる大問題があります。それは今世紀の中で最も恐ろしく忌まわしい悪夢である"核戦争の脅威"に他なりません。各国のソーシャルワーカーたちは、まさにこの問題を最大の関心事としていました。そして、テーマ別会議や地域別会議において『日本は唯一の核の被爆国でありながら、反核運動の中核となるべきその役割を、何故もっと積極的に果たそうとしないのか』と辛辣な意見を述べてきました。 諸外国のソーシャルワーカーたちは、大衆操作されてしまっている日本のソーシャルワーカーたちにはがゆい思いを抱きながら、『目を覚ませ』といいたかったのかも知れません。大衆操作されている事を見破り、常に民衆の立場に立って、平和な社会を実現すべく意見をいい、活動して行く事が、ソーシャルワーカーの使命であることに気がつかなければならないと思います。」

(五味保教 つのぶえ 84号)

 私(筆者:山浦俊治氏、以下同)はこれを読んで、この筆者と同様の驚きを感じる。各国のワーカーからいわれてみればそのとおりである。反核への無関心は、ソーシャルワーカーとして、致命的な欠陥条項であると指摘されても、反論の余地はない。私は、福祉施設現場の一員として、日常性の中の埋没するあまり、反核運動への関心を全く風化させてしまっていたことに気が付いたのである。

 そして突然の如く「木全大孝」という名を思い出し、今こそこの人物を紹介せねばと思い立ったのである。

 昭和30年、私が初めて木全大孝師に出会ったのは福祉にかかわることではなかった。原水爆禁止運動に関係してのことであった。木全60歳、今の私と同年輩の時である。

木全大孝の経歴

 木全師は稀にみるキャパシティーの大きな人物であった。それを語る前に、この「社会福祉の先覚者シリーズ」に相応しい経歴を、一応頭に入れて頂くことが順序かと思う。無形な形ではあるが列挙してみる。(年表略)

 地方を支えた社会事業家として嚇々たる経歴というべきであろう。
 今日、木全師の業績として残っているものに、養護老人ホーム光音寮(浜松市鴨江町)と、更生施設慈照園(浜松市鴨江町)の二つがある。光音寮は戦後県内最初の認可(昭和21.12.5)施設である。慈照園は生活保護法の更生施設として、県内では唯一のものとして残っている。光音寮施設長木全富雄(大孝の甥で養子)と慈照園施設長、左右田丈夫は共に木全師の薫陶を受けた直弟子である。この両氏が語ってくれた木全大孝のプロフィールは、私が勝手に想像していた大孝像とは、かなり違ったものであった。

二人の弟子のことば

 私はこの小論を執筆するに当たり、木全、左右田の両氏に木全師の追悼誌、遺稿集、墨跡等資料の閲覧を請うたが、何れも無いということを聞き、吃驚した。これだけの人物である。没後、相当量の文書類が残っているものと予想するのが、自然ではないか。事実はまったく違っておりそこに木全師の真姿を暼見する思いがしたのである。先ず二人の施設長の話を聞くことにしたい。

木全 富雄

 「記念誌がないのは、本人がその種のものを好まなかったこともあるが、鈴木昌一郎氏(70歳、大孝と兄弟同様の友人、施設の書記をした)が執筆し、まとめる予定になっていた。それが鈴木氏が突然脳出血で倒れ亡くなったので、実現できなくなった。自分達弟子が作らなかったのは、怠慢のように思われそうだが、師の性格を考えた場合、必ずしも記念誌が絶対必要なものとは思われなかったからである。
 師は文章を書く事を好まれた方ではなかった。著書は勿論、遺稿というべきものはない。不思議なほどである。『俺は書かないが、お前は勉強をして書くようになれ。本代を惜しむな』といっていたから、師は文章を得意としないことを自覚していたのではないか。
 寺の住職は、それなりに墨跡があるものだが、師には一切ない。最低限必要な卒塔姿に書く程度で額や色紙のたぐいはない。頼まれても揮毫するようなことはなかった。得意としなかったためであろうか。
 一見、話上手、講座上手のように思えるが、そうではなかった。法話は下手であったし、まためったにしなかった。大勢の人々、いわゆるマスに対して語る事(文章を含めて)は好まなかった。そういう場合は弟子に代わってやらせ、従って私も命ぜられた。
 この様に、人間をマスで見ることは嫌いだったが、個々の人間との付き合いは好きだった。明朗磊落で、人を育て、人を愛した人であった。師には6人の直弟子があったが、私は末弟子であり、左右田は兄弟弟子である。大厳寺の僧坊は家庭的であり、頼まれるがままに人を置き、食客というか、客分、寄宿人が常に絶えなかった。画家、書家、文人など多様であった。その中で、関野香雲(書家)、佐藤一英(詩人)など、その後一家をなくした人も少なくない。

 長い間、市会議員を務めたこともあるが、生来のオーガナイザーで、組織づくりが好きであった。担がれる事も、スポンサーになる事も、頼まれると拒めない人であった。履歴書の如く、浜松市最初の共同募金会委員長であり、浜松市社協の最初の副会長でもあった。履歴書に挙げてないが、昭和30年には、当時まだ少なかった浜松市内の民間施設を結集して、協議会を発足させた。
 戦前には昭和5、6年頃、境内に6坪程度の建物で、白王児童図書館をつくり、子供達に喜ばれた。300から400の図書があり、民間の活動としては当時極めて珍しい施設であった。浜松の70代の年輩者には、この子供図書館を懐かしむ人は多い。
 昭和14年頃、仏教青年会の代表としてタイ国に渡ったり、支那事変の15年頃、萩丘(現在の市営グランド内)に、軍馬、軍犬、軍鳩の慰霊碑を建立する発起人代表となって努力したりした。
 戦後、浜松日中友好協会の初代会長となったり、浜松原水爆禁止協議会ができると初代会長に推薦されたりした。
 その行動は多様に過ぎ、まとまりのない感もするが、師にしてみれば、それなりに筋が通っており、一貫していたのだと思う。

 有名な浜松日本楽器大争議(大正15年)の時、大正デモクラシーの立場から労働運動を支持する一人になった。師は生来過激派ではなかったかと思う。日中友好の運動も、原水爆禁止運動に参した事も、左翼に対するある種の共感があっての事であろう。私には、俺の真似をして外に出てはならない。俺と同じ事をなれば、物笑いになるだけだ、とよくいわれた。寺の事、福祉の事、それだけに一途であれ、真剣であれといわれた。

 師は昭和36年5月、ガン研で胃ガンの手術をしたが、暮れに再発、12月26日、日赤病院で死去した。66歳、当時の平均寿命である。昭和37年3月26日、新装なった市民会館ホールに一杯の会葬者が集まったが、市民会館での葬儀は、これが最初で最後になったと聞く。」

左右田 丈夫

 「師は講座や法話は嫌いだったが、座談は好きだった。談論風発、お酒は好きで一升酒を飲み、後年はビールだけだったがダースを空ける勢いだった。弟子はしばしば夕食の酒の席で話を聞かされた。併しその中にも、弟子教育は忘れなかった。
 仏典に『一個半個の説得』という言葉がある。一個とは一人前の人格、半個とは半ぱ者というより、問題を持った人、社会事業の言葉でいったら、対象者(クライアント)であろう。『半坐を分かつ』という言葉もあるが、これは正に一対一の関係、われわれのいうケースワークである。大孝師は、マスプロ的であり方は得意ではなかったが、『半坐を分かつ』『一個半個の説得』には長けていたと思う。正にケースワークを行う、ソーシャルワーカーであった。
 師は少年時代腕白小僧で、悪戯者で始末におえない子供であったという。長じてをれがバイタリティーとなったのではないか。師は戦前特高警察にマークされた、注意人物であった。新聞の見出しに『赤い衣を着た僧侶』と書かれた事もあった。
 師の関心は、常に弱者救済にあった。宗教者は死んだ人の相手だけではいけない。生きた人間の人を考えろよとよく言われたものだ。

 芝居が好きで、謡曲も好んだ。若い頃、素人芝居のト書をやったと聞いている。賭事や勝負事は嫌いで囲碁将棋、マージャン、弟子の私達にも一切御法度だった。ボーイスカウト浜松第1団(昭和29年)は、その名の如く、浜松市におけるボーイスカウト運動の草分けである。師が会長となり、私が隊長をつとめ、その後当地におけるリーダー養成に力を注ぐことになる。
 大厳寺は、寺として経済的にゆとりのある方だった。また師は子供がなかったので、いろいろな組織を経済的に支えるのに有利な立場にあったと思う。併し、それも、意志がなければできないことである。師は確かに、自分で善いと思った事に対しては、金を惜しむ人ではなかった。」

福祉関係者の思い出から

 それでは福祉関係者は木全大孝をどう見ていたであろうか。希望寮長であった白髪白髭の故影山学氏の感想を紹介して見よう。

 「昭和30年の伊豆長岡町での施設長研修に参加した際の先生との狩野川あたりの散策の途中、河原の堤に腰をおろし、話された市政に対する信念の強さと、市民への思いやりの深さはいまだに私の心底に鮮明に焼きついています。そこでの話のなかで『自分は市議会議長としての立場ではあるが、同じ福祉の道をあゆみ続けるものとしてこれから君と公私共に交わっていこう』との言葉には感涙にむせんだことでした。」

(遠州仏教積善会70年の歩み 9P)

 神田均氏(元西部民生事務所長、元清松園園長)はその若き日に下宿がなくて困っていた時、木全氏の計いで慈照園の客間に居住を許され厄介になった期間があった。その折、管理事務の担当者から注意がある。

 「『あなた方は、木全会長さんが承知して受けて来たお客さんではあるが、同じ屋根の下で寝食を共にする以上、朝晩の行事等は収容者と一緒にしてもらわなくては困るのでそのつもりでいるように』と引導を渡された。その行事の一つが、週何日か、朝早く木全会長が来園され集会室で全員が般若心経を朗誦することであった。」

(福祉遍路 36P)

 当時はほとんどの入所者が刑余者であったが、神田氏は一緒に般若心経を唱えながら、宗教家木全大孝、社会事業家木全大孝の融合点の姿に、強く心魅せられてゆく。没後四半世紀を経た今日、尚その人柄をおしむ社会福祉関係者は多い。

村瀬武士の見た木全大孝

 私の若い頃からの友人で、村瀬武士(日本国際貿易推進協会京都総局長)という人がある。
 この村瀬氏は佐久間町西渡の出身であり、戦時中、日本鉱業峰之沢鉱業に200名近い中国人が強制連行されて来ており、その大半が死亡した事件を知っていた。戦後、彼が中心になって70余体の遺骨が発掘された。その後の保管に困った時、共産党浜松市委員会の佐藤清氏の計いで紹介されたのが木全大孝であった。木全師は快く遺骨を大厳寺に引取り、慰霊を行ってくれた。
 その年の秋、建国間もない中国人民の招きで、木全、村瀬の両氏は遺骨送還のため中国に渡る。人民共和国になって入国した日本人としては十数人目であり、国賓的待遇であったという。
 昭和29年、遠労会議の徳田信夫、桑原清、共産党の佐藤清、それに村瀬武士などの諸氏が中心になって、浜松に日中友好協会を結成しようとした時、木全師は会長を引き受ける。
 その年の3月、ビキニでの水爆実験により被災した第五福竜丸が焼津に帰港し、国際的な大事件となった。焼津からの呼びかけや、東京杉並区から始まった原水爆禁止運動に呼応しながら、浜松にも革新政党、労働組合、民主団体が浜松原水爆禁止協議会を結成しようと計った。その時、会長に推挙されたのが、やはり木全師であった。西高の教師であった杉山秀夫氏が被爆者の立場からの活動家であり、木全師が西高のPTA会長であったので、そんな縁もきっかけとなったようである。

 村瀬氏はいう。「保守政治家としては、やはり型破りの人物であったとおもう。勇気というか、正しいと思った事には世間の風評など恐れる人ではなかった。原水禁運動の中でも、アメリカの原水爆は危険で、ソ連の原水爆は平和のため的な議論には、一顧も与えず、筋を貫く人であった。」

 毎年夏になると、広島に向けて東海道を平和行進が通過する。大孝師は、しばしばその先頭に立っていたのを、私も記憶している。

「志士仁人」の人

 私は浜松市図書館に半日籠って、市議会の議事録から、木全大孝議員の発言を拾ったことがある。今ここで紹介する紙数もないが、議長を三期務めたこの保守系無所属の議員の発言には、したたかなものがある。おそらくその行動は、権謀術数なしとはいえないであろう。
 戦後の社会事業の世界でも、私のような一世代遅れた青二才の後身から見ると、大孝師やその盟友であった坂下平八氏などは、いかにも福祉ボスの如く見えたものである。併し前述した事柄だけでも、そんな視野狭窄の単眼では見通せない人物であることは明らかである。

 私はこう思う。木全大孝師は、結局明治以降日本の社会事業家や社会活動家の一類型値である「志士仁人」の人であったのではないか。辞書によれば、「志士」とは、命を投げ出して国家民族のために尽くそうという高い志を持った人をいい、「仁人」とは、思いやり深い人、情け心の厚い人をいう。大正、昭和の激動の時代に、押し寄せる左翼と軍国主義の高波の中で、一人の仏徒として、時代に即応した「志士仁人」的生きざまが、師の軌跡ではなかったか。
 その眼が、隣国へ向けられ、罪障感となった時、中国人強制連行者への関心となって結実した。更にその眼が、グローバルに人類の危機を見出した時に、原水爆禁止運動へのいちはやい参加となって現れたのではないか。

 仏徒であり、地方議員であり、何よりも社会事業家であった大孝師が示した卓見を、われわれは今、どれだけ己の問題として考えることができるだろうか。国際社会福祉会議で各国のソーシャルワーカーから、非難さえ含んだ問いに対して、どれだけ真剣に応えうるものであろうか。

 ともあれ32年前、大覚寺の広間で、遠労会議、共産党、各種民主団体の代表が集い、原水爆禁止運動の盛り上げについて、しばしば協議した。私もキリスト者平和の会を代表してそれに加わっていたが、なぜか思い出す木全大孝師の姿は、浴衣がけで、端座はしているものの胸元をはだけ、悠揚と団扇を使う、またとない温顔だけである。



※ この文書は昭和62年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(山浦 俊治 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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