先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

静岡県社会福祉協議会 ホーム > 先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~ > File23 秋口 常太郎 氏

File 23

県社協、県共募初代局長
〜感謝の心を忘れぬ信念の人〜

秋口 常太郎 氏 Jotaro Akiguchi

Profile

はじめに

 戦後の混乱時期に、民間の組織として脚光を浴びて誕生した、県共募、県社協の初代局長は、秋口常太郎であった。
 昭和24年7月、静岡県社会事業共同募金委員会委員、ついで常務委員、引き続いて事務局長就任となっている。
 昭和26年には、名称更新で、財団法人静岡県社会事業共同募金委員会理事と事務局長に、その上同年に発足した、静岡県社会福祉協議会常務理事と事務局長に就任した。
 このころは名称が転々と変わり、社会福祉法人静岡県共同募金会、社会福祉法人静岡県社会福祉協議会となったが、秋口局長の椅子は変わっていない。
 終戦後、社会事業から社会福祉事業に体質改善に移行してゆく過渡期に、県共募、県社協の最先端にあって指揮をとった、秋口局長とはどのような人物であったのか。

出生から県視学まで

 明治21年12月12日、静岡県田方郡戸田村戸田199番地に出生、同地にて義務教育を終え、青雲の志を静岡県師範学校に求め、明治45年本科第一部を卒業、登龍の門を超えて官職に就いた。
 卒業5カ年を経ずして、大正5年3月に、田方郡江間尋常小学校の校長に出世したときは弱冠29歳の青年校長であった。
 3年間校長職を経験し、大正8年には静岡県周智郡視学に抜擢された。
 視学とは旧制の地方行政官で、府県視学、郡視学、市視学とにわかれ、学事の視察、教育の指導監督、教員の任免等をつかさどった「視学官」で、教員達に大目付として恐れられた存在の役目であった。
 32歳の郡視学から、34歳には静岡県庁の属官となり、大正15年4月(39歳)には県視学に昇進した。
 伊豆の南端戸田の僻地からでてきた一青年が、たちまち県教育界の大目付役に就任したことは、順調どころではなく、トントン拍子のエリートコースであったであろう。
 昭和3年8月(42歳)には、静岡県立御殿場実業学校長に転出、ここでは10年余の奉職が続いた。

戦後処理らつ腕

 昭和15年(54歳)には県を飛び出し、東京府主事兼学務課長事務代決として、東京府の教育振興のため活躍、終戦間際の昭和18年官職を辞し、民間団体の住宅営団参事、東京支所総務課長兼運輸課長として野に下った。
 敗戦の昭和20年9月には、終戦処理のため仙台支所に派遣され総務部長に就任、1カ年で住宅営団を退職、昭和21年(60歳)、進駐軍住宅仙台管理職員となり、学務部長、総務部長を兼任、米軍相手の重要官公吏となった。
 昭和24年1月(63歳)特別調達庁参事に昇格、終戦処理と進駐軍駐留について米軍との交渉につき辣腕をふるったと言う。
 これ程の高度な責任ある仕事を次ぎ次ぎ果たしてこられたのに、御自身からは過去を語ることがなかったと、県共募、県社協の職員は語っている。
 ただ、静岡県保育所連合会の研修会の懇親会の宴席で、筆者も次のような物語を聞いた覚えがある。
 「仙台において、進駐軍の命令による、日本軍の航空機爆破作業に参加したが、あんなひどい思いをしたのは初めてだった。米軍監視のもとで、日本人が汗と油で製作した日本軍用機を日本人の手で次々に爆破してゆく時泣きましたよ。」と大粒の涙をぬぐいもせず、嗚咽して語ってくれた。
 この爆破作業に先だって、航空機の車輪タイヤは取りはずして、秘そかに保管し、これが日本人の戦後発明した、スクーターの車輪として利用され、映画「ローマの休日」の中に登場するスクーターとして世界にも知られるようになったとも話された。
 昭和24年定年退職(63歳)し、10年ぶりに静岡県に戻って、静岡県社会事業共同募金委員会常務委員となり、初代事務局長となり20年間、82歳の高齢まで継続勤務することになる。
 履歴書で見る限り全く空白のない職の変わり方で、それだけに優秀な人柄を見て、引く手あまた、ひっぱりだこの状態で席がうまっている。

共募局長そして内助の功

 県共募局長になってから、また幸いなことに男女2名の股肱の事務職員を得たことである。
 静岡県同胞援護会(昭和26年発展的解散)より派遣された、田仲忠次、福地雅子の採用であった。
 秋口常太郎の長年の社会福祉に貢献されたその努力もさることながら、この2人の事務職員の勤務状態は関係者の賛辞するところであり、内助の功をたたえたい。
 本稿を草するに当たり両名からありし日の秋口局長を語っていただいた。

 「秋口局長は、父のような方だと思って仕えました。」
 「感謝の心を忘れてはならない、たとえ妻であっても、ありがとうございましたと拝み合って生活している、と。」
 「きびしい人格者であられたが、20年間叱られたことは一度もありませんでした。」
 「出勤状態も局長自身が規定通り守り、早帰りなさるときは、花の買いがありますのでと私達に了解を求められ、なぜか花の会と言うのが口癖のようでした。」
 「年末は共同募金、歳末たすけあい運動がありますので、12月31日まで出勤し、給与のことについても、県民の奉仕による財政だから他の職場より低いのは当然だと主張されておりました。」

社協局長・信念の人

 初代県社協の局長で、7年間を兼任、二代目の亀山巌に引き継ぎ、以後県共募に専任し82歳の高齢まで、一途に勤めぬいたのは驚異というほかないが、それ程自他共にゆるされた適職であったのであろう。
 まれに見る人格者であり、信念の持ち主であったその素地となっていたものは「生長の家」(谷口雅春)の信仰にあったと思われる。
 生長の家の神示に
 「汝ら天地一切のものと和解せよ・・・・・・」からはじまり、中ほどに
 「皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ、汝の夫または妻に感謝せよ、汝の召使に感謝せよ・・・・・・」
 最後の章に
 「われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処に顕れる」で結ばれている。
 田仲、福地両氏の語ってくれた上掲の言葉もこの神示によってうなずける。
 昭和50年3月21日、87歳で逝去され、静岡市長沼町2丁目21の14、真宗真勝寺に埋葬された。



※ この文書は昭和63年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(永田 泰嶺 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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