先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

静岡県社会福祉協議会 ホーム > 先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~ > File26 井田 可吉 氏

File 26

県民協初代会長
〜戦前戦後の民生委員のリーダー〜

井田 可吉 氏 Kakichi Ida

Profile

はじめに

 在宅福祉の充実があらためて求められている今日、地域においてそのリーダー役としての活動が期待されているのが民生・児童委員である。ことしはその一斉改選の年にもあたり、近隣の人々から真に信頼され、気楽に相談できる人材が選出されることが望まれる。社会福祉協議会活動が効果的に展開されるかどうかも、その組織の中心にある民生委員の考えと行動にかかっていることは周知の事実である。この大事な役目をになう民生委員の全県下の指導役を戦後の生活保護法を担当した時期から今日の協力者としての世話役活動にうつる時期まで活躍したのが井田可吉氏である。民生委員の新しい世話役活動の大きな柱とも武器ともなった世帯更生運動と世帯更生資金の創設に提唱役をつとめた人としても著名であり本県民生委員活動を天下にしらしめた人でもある。この井田可吉氏のプロフィールを委員活動の同僚としてみまもり協働の汗を流された永田泰嶺氏の筆により紹介してみたい。

社会福祉しずおか

 静岡県社会福祉協議会発行の「社会福祉しずおか」の前身は、戦前、静岡県社会事業協会で発行した「静岡県社会事業」の月刊誌に始まる。
 戦後は、「静岡県民時報」(昭24.4.15)の創刊号が発行され、「静岡県社会福祉時報」(昭26.4.15)と改題、ついで「社会福祉しずおか」(昭34.1.15)と衣替えして現在に到っている。
 その復刻版が、1集、2集、3集と3部に分類、32年間分が大冊で発刊され好評を博している。この冊子の中から民生委員、井田可吉氏の姿を拾って見た。

県下民生委員の代表

 創刊号の静岡県民時報の発行所は、県民生部厚生課で、発行人は当時の厚生課長、外山良造となっている。
 昭和24年当時は、アメリカの占領政策中であったから、発刊の祝詞は小林知事の次に、静岡県軍政部、マックス・マイヤーが「民生委員会の指導計画は極めて重要であり、本紙がこの計画推進に役立ち得るものであると確信致します」(一部を抜粋)と特に民生委員制度に言及しているのが目につく。役所関係の次に、民生委員、井田可吉の名がでてくる。

 「静岡県民生時報の誕生の声を聞いただけでも私共民生委員の心は自ら万歳を叫びたい程に思う次第であります。(中略)
 この時こそ民生大動脈とでも、たとえたいこの時報発刊は2千に近い県下民生(児童)委員に対して最も良い指導機関として又よき師、よき友として毎月お目にかかることを唯一の望楽と致したいと思います。」(以下略)

 県下民生委員を代表して感激の祝詞をのべている。
 この号の末尾に、静岡県民生委員連盟の役員名が発表されている。
  会 長 静岡県民生部長 五十嵐文雄
  副会長 静岡県厚生課長 外山良造
  副会長 静岡市支部長 井田可吉
 あと、常任理事5人と幹事3人は各市・郡の支部長があてられている。

庭球の井田選手

 井田氏の履歴を見ると、昭和16年に静岡県方面委員を拝命しているから根っからの民生委員で、県下民生委員の氏神的存在と言えるであろう。
 なお、重要役職を持ち続き得たのは、その人格の良さにあったのではなかったか。

 昭和25年4月号に掲載された随筆調の「私の趣味」は人柄を知る上に参考となる。
 「そこで今日までの経過を辿ってみると、真に趣味中の趣味殊に30年以上も続いているものは庭球と朝起きである。何故に庭球に朝起きが付いているかと言えば、今から30余年前に現在の所に聟入り後偶同志間に庭球の話が出て相談はトントン拍子に纏り、中学生時代に選手であったことを想出して早速実行をと約束するに至った。然し待てよと如何に持って生まれた趣味とは言え結婚後日もまだ浅いのに昼間庭球は両親はもちろん店員の手前至極具合が悪い、趣味庭球の為に早くも離婚話テナ事にでもなってはと考えた揚げ句、ヨシソーダ凡てが何でも始めが大事だ、日の出前なら一向差し支えない、人の目にも立たず、朝食前には引き揚げると云う調子で発足した。
 付近の小学校の校庭でラインなしネットも張らずそれでも中々面白い、これが基となり朝の連中が多くなって来て今日では30名近くの大世帯になっている。技術としては最早進捗は望めないが、それでも幾分ずつ向上して行く処に面白味がある。目標なしの朝起きは永続性が薄いが此の様に30年以上も築きあげた趣味が目標とあらば、生涯を通じての純然たる趣味となろう。」(前文、後文略)

 この文の左側には、ラケットを振る颯爽とした井田選手60歳の写真が添付されている。

県社協副会長に就任

 昭和26年1月号「新しい年を迎えて」の項で、
 「今着々進みつつある本県社会福祉協議会も新春早々めでたく誕生の運びとなろうが、本年は卯の年、私の誕生も卯の年の元旦生まれ、なお生まれた時刻が卯の刻(午前6時)と親から聞いている。油断すると亀に追い越される。本年こそ心緩めず励み勇んでまっすぐに走りたいと思う。」

 生年月日を調べるとなるほど、明治24年1月1日生まれで卯の年の61歳還暦の年に当たっている。
 掲載のどの文章を読んでもユーモアがあり、やわらかな肌触りを思わせ、60歳過ぎてもスポーツマンであるという人格、持ち味は人々に崇敬と親密さを与えたことであろう。
 昭和26年2月20日、静岡県社会福祉協議会創立総会においては、会長 小塩孫八、副会長 井田可吉、長谷川保、勝田博と共に副会長の重職に専任され県社協という檜舞台で活躍する井田可吉の姿が一層鮮明になってくる。
 昭和27年5月31日、静岡県民生委員連盟は解散となり、県社協の傘下に入り、民生委員児童委員部会の初代委員長として就任し、当県発案の世帯更生運動を全国的運動に定着させるための活動が開始されるのである。
 他県にさきがけて、低所得者世帯のための福祉資金貸付制度が創設され、世帯更生運動の推進に取り組んだ本県の民生委員活動の実践をふまえて、昭和27年8月26日から滋賀県大津市で開かれた第7回全国民生委員・児童委員大会において静岡県代表として井田委員が全国的運動への展開を提案したことが全会一致で採択されたことはあまりに有名な話として今も語りつがれている。今日の世帯更生資金の創設につながり国庫補助をうけ我が国最大の低所得者対策として伸長していくのである。

 昭和28年新年号では、
 「斯くして全身傷夷の日本も、7年にして先ず松葉杖も捨て単身独り歩行が出来るようになり、いわゆる独立日本として立ち上がるようになり、昭和27年夏、種子を蒔いた「世帯更生種」は早速にも活発に芽生えた」(一部抜粋)

 と、アメリカ占領政策から抜け出し、日本人による日本の政治が開始された喜びと共に、世帯更生運動の発芽と伸張に期待している。

県民協の誕生

 地域福祉の推進役としての期待が民生委員、児童委員に対して高まり、世帯更生資金の貸付指導や世帯更生運動としての一委員一世帯更生指導など具体的な自主活動が、福祉六法の協力活動にあわせて重視されるようになり、一方委員相互の互助共励活動のとりくみが求められるようになっていくなかで、県下民生・児童委員の資質向上、互助共励そして親睦交流の場づくりが求められていく。こうした動きをもとに昭和41年9月8日静岡県民生委員協議会が設立され、初代会長に井田氏が選出される。
 この県民協の設立のねらいは、共励研鑽、親睦の機関としての場であって、対社会的な活動をすすめる場合は県社協の民生委員、児童委員部会においてとりあげ県社協と一体となって活動することとなっている。このため会を開く場合も午前中は民委部会、午後は県民協理事会という形でタイアップした計画をもたれつづけられてきている。
 このように社会福祉協議会活動との連携のなかで、本県独自の「老人をひとりぼっちにしない運動」や「丈夫な子どもを育てる運動」などに積極的にとりくむこととなっていくのである。

表彰歴

 昭和36年11月号
 「3年後には、オリンピック東京大会が開催と決定されているが、今や世界のまなこは日本の伸びゆく力に注目しつつある矢先、各国よりの来訪者のなかには、日本の福祉国家の現状をと視察を兼ねての来訪者も相当あることが予想される。依って・・・・・・」以下略

 昭和39年11月15日号
 「藍綬褒章に輝く

静岡市御幸町 井田可吉

 昭和16年方面委員就任以来、23年余りの長きにわたり、生活に困っている人々の援護と、留守家族の慰籍激励、などの功績により、29年に県知事表彰、30年に全社協会長表彰、31年に厚生大臣表彰を受けられました。」

 以上が枠組みトップに掲載され、大きくその功を称えられている。またこの年は、東京オリンピック開催年であり、東海道新幹線営業開始の記念すべき秋でもあった。
 ついで、昭和41年11月3日、勲四等瑞宝章の叙勲の伝達があり、11月16日宮中に参内し拝謁の栄に浴している。
 昭和43年10月17日、県社協会長・小塩孫八氏の会長辞任に当り、副会長書記にあった長谷川保・内野豊・井田可吉も共に退官し、鈴木与平理事が次期会長に就任した。
 小塩会長の片腕となり、蔭の実力者だった副会長井田可吉の17年間の功績は顕著なものである。
 同年12月には明治百年祭に当り、総理大臣佐藤栄作より、特別功労の表彰を受けている。
 民生委員としての活躍は80歳を超えても続けられているが、県内、全国ともに顧問格となり、社会福祉事業の援助者として生涯をとじている。

 県民協の婦人部長として長年一緒に活動した三田ユミ氏は井田のことを追憶して次のように語る、
 「井田さんはやさしい人柄で温厚な方だった。円満な会長さんとして信望をを集めておられた。民生委員活動が大きな転換をむかえる大事なときに会長職をつとめられた」と。

家庭人としての井田可吉

 安倍郡大里村石田、父織田平吉、母ゆうの次男として明治24年1月1日出生、静岡県立静岡中学校3年中退、この在校中庭球選手として活躍、以後農業に従、明治44年(20歳)徴兵検査甲種合格にて静岡連隊に入隊する。
 所定の検閲期間を終了、中国北京に派遣され駐屯中、北京日本人小学校体操教師を拝命、この期間のちの秩父宮妃殿下と御交際の奇縁となる。
 転じて中国山海関に派遣され、大正2年(23歳)帰国するが、臨時招集により日独戦に参加、中国青島の総攻撃に参加、大正3年(24歳伍長)召集解除となり郷里大里村石田の織田家に帰郷する。
 大正8年(29歳)静岡市御幸町5番地−1、井田廉平の長女英子と結婚、婿養子となり井田性となり、「たいや呉服店」の店舗を継承する。
 結婚後趣味の庭球を続け、城内東小学校庭を利用、朝食前庭球の組織を作る。
 妻英子との間に一男五女あり、長男廉一郎、長女松江、次女萩枝、三女美和子、四女陽子、五女みゆきの子宝に恵まれた。
 一粒種の長男廉一郎は父の指導により8歳より庭球になじみ、県立静岡商業4年生在学中、神宮庭球全国大会で優勝し将来を嘱望された。昭和15年、静岡歩兵3部隊に入隊後大東亜戦に参加、昭和19年、サイパン島に上陸後、7月18日27歳の若さで玉砕戦死した。
 「吾子を想う親心、短命も止むを得ない、名残はつきぬ、ああサイパン島」と日記に朱書きし嘆いている。
 昭和20年6月、静岡大空襲で可吉の養父廉平は戦災死し、自らもようやく命拾いしたが、たいや呉服店は全焼、人の恵みの木材でバラックを建てての一家の生活が始まった。
 この引き続く痛恨事に耐ゆるかのように、井田可吉の社会奉仕の活動が開始される。
 昭和16年方面委員委嘱をはじめとし、町内会長、消防団長、司法委員、人権擁護委員、調停委員等々の委嘱を兼ね、あらゆる団体に関係し、88歳の逝去まで続くのである。
 その経過を月毎に少佐・綿密に記録し項目別に分類してあるなどの資料図書を拝見し、合唱せずにはおられなかった。
 表彰状・功労証を受けた数40通、感謝状46通、委嘱状370通、驚くべき数が明示されている。

社会の人のために生きる

 昭和32年(66歳)「50余年の歴史を跡に呉服商廃業、店じまいの売り出し5日間」と記してある。自ら記した記録は、昭和46年11月5日(80歳)で終わっている。死去までの8年間は未記載で空白になっている。
 井田家にとっては、波瀾の生涯であったかも知れないが、家庭のなかのぬくもりは、父可吉、妻英子、五人の娘によってかもし出していたことを知る。
 妻英子は常に、「家庭とお店は私が守ります、心おきなく社会の人々のために尽くして下さい」と夫可吉に告げていたという。
 父を尊敬する子供達は、80歳を超えてもラケットを握る可吉と共に庭球を通じスポーツ一家としてなごやかさを保ち、父の叱責を一度も聞かなかったということである。
 昭和51年(86歳)道路拡張その他で、静岡市大岩に移転、昭和53年7月5日愛妻英子と死別、2か月後の9月1日急ぎ慕うように可吉が逝去、菩提寺、静岡市伝馬町・宝泰寺に共に埋葬されている。



※ この文書は平成元年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(永田 泰嶺 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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