先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

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File 29

進駐軍静岡軍政部厚生課長
~静岡の戦後の福祉に大きな役割~

イレーヌ・ランドルフ 氏

Profile

<占領軍として静岡駐在>

静岡県社会福祉事業の豊かな現状をかえりみて、終戦直後に進駐した静岡軍政部、厚生課の指示、勧告がどのように影響をもたらせたのか、先覚者のプロフィールの中にその代表としてランドルフ女史を掲げたい。

今更、思い出したくもない米国の占有政策の一環ではあるが、歴史の事実として避けて通れないであろう。

記録をたどれば

昭和20年9月2日、無条件降伏調印

昭和20年9月10日、静岡県駿東郡富士岡村(御殿場市)に占領軍進駐、11月6日、アメリカ軍約1,500名、城内の旧歩兵34連隊兵舎を占拠し、駐屯し、静岡市の日本銀行支店を接収して軍政部を置き、県庁内には事務所が設けられた。

最初は情報、教育、司法、行政、保健衛生、経済、労働の6課制であった。

昭和21年、軍政部の内部組織として、厚生課が編成され、その専門官、イレーヌ・ランドルフ女史が駐在した。

女史の視察の最初は、静岡市田町4丁目に、昭和7年設立された、静岡市立救護所で収容保護事業の施設であった。

<児童と老人の分離保護指示>

視察後の指摘事項として、

「この施設ではあらゆる年齢層が雑然と収容されているが、まことに適切を欠く措置であるので、早期に老人と児童をそれぞれ分離保護すべきである」と、当時の救護所責任者、菊池与惣吉主任に申し渡した。

当時の県下の要援護者は大人、40,807人、児童が35,445人であったという。(県厚生課昭和21年2月27日調査による)

どの収容施設も満杯で困却している状況でも、ランドルフ女史の見識は厳しく、県下の施設に要請していった。

このことから、昭和22年9月に、静岡老人ホーム創設準備委員会が結成された。

同年10月には、静岡軍政部が再編成されて厚生課長に、グリカット注意が任命され、静岡厚生園を視察した。

同年11月、富士育児養老院視察、ランドルフ女史の意向である老人と児童の分離が強調され、老人は伊豆長岡、湯の家「共栄館」に12月8日転送された。

湯の家、共栄館は、同胞援護会の経営で、社会福祉従事者の休養施設であったが、代表者であった深沢鉱二氏を軍政部に召喚、深沢氏の意見を聞き入れず、「勝者米国の命令だ」と言って養老施設に急きょ変更させたという。

<児童課の設立を要請>

翌、昭和23年、軍政部の要請により、静岡県児童課が設立されるのであるが、初代課長となった故松永一雄氏の述懐の文を静岡県保育史から転載させてもらうこととした。

「前日の夕方出張先で出頭命令を受けて、3月26日の午前9時、秘書課に出向くと直ちに知事室に案内されて『君に児童課長をやってもらうよ。先ず軍政部に挨拶に行きなさい。あと秘書課長とよく打ち合わせをしなさい。』と、小林知事から辞令を渡された。役所の慣例では任命者から辞令を受けると、"先ず軍政部へ"というのは異例のこと。どんな事情なのか皆目見当がつかないままにGHQ静岡軍政部の厚生課に行き、名刺がないので辞令を名刺がわりに挨拶すると、すっと立ち上がった女性課長は辞令をちらっとみただけで『ミスター、マツナガ、待っていました。大変だろうが不幸な子供らや未亡人のために一緒に努力しましょう。課の仕事の準備を急いでください。ときどき話にき給え。』(通訳による)という調子。

すでに名前を知っていたらしく思えて薄気味悪い感じがしたが、赤い口紅に丸い小じんまりした青い眼がなんとも言えぬ好印象で人なつこい面影であった。

課員は先ず4人で発足だという。事務室は別館の民生部とは離れた本館4階の東側開拓課の会議室が充てられたが、お役所7つ道具の机、椅子の搬入から筆墨の準備、引継書類の説明聴取が3日ほどを要した。

事務上の懸案、未遂事項は解ったが、何故にこんな年度切迫の時、しかも急いで業務を軌道に乗せようというのか、そのポイントを説明してくれる人がいない!これがお役所の通例だが――それでも各種の事業状況の報告や説明を聞いているうちに、軍政部の指摘事項と圧力があったと感じられ、時には浮浪児の対策が軍政部の意に副わないということが、だんだんわかってきた。兎に角、えらい役割を引き受けたものだと思った。いずれにしても軍政部を訪問してざっくばらんに現状報告したり、雑談したり、その間質問や討論を重ねたものだ。

初めは先方の習慣や意向がわからないので通訳に教えてもらった。通訳も好い人であったが頑丈な身倅の厚生課長イレーヌ・ランドルフ女史(当時35歳)がとても柔軟であった。

例えば日本的に考えれば、おれは無理な注文だと感じるとき"それは困る"と断ると"では研究課題にしよう"と柔らかく応対してくれる。ある時は予算がとれないというと、米国の例を引用して暗に予算のとり方を教えられたのには大助かりだった。叱られもしたが面白いこともあった。

<ジープでかけまわり適切な示唆>

軍政部はランドルフ課長他3人、通訳2人、日本女性補助員1人の陣容で、ジープをもって東西を駆け巡っては情報をとってきて、それを課題に提供される。そのスピードはとても追いつけないし、米国の現場で活動したいというランドルフ課長の頭の回転の早いのは、我々本庁の者は勿論、地方事務所の人たちも引き回された形だった。

しかし社会事業の専門家だけにランドルフ課長から教えられることは多かった。

浜松養護院の母子寮を訪ねて授産の賃金が安くないか、横須賀(掛川市大須賀)の戦争未亡人の行う帯締(婦人が帯の上にしめるひも)の内職の賃金は少ないと思う。職業安定所に調べさせよという要請が、現状を視察した上で飛び出してくる。沼津のK保育所視察に同行を求められた時の要請と注意は、子どもらの便所の造りが悪い、子どもは遊びに夢中になり、ぎりぎりで小便に入る。また次の遊びで頭の中は一杯だから最後の一滴を便器から洩らす、これは不衛生だし後始末で保母が苦労する。衛生上もまずい。保母の労働過重を強いないため、便所の改造を望むなんて注文は余りにも細かいこと柄であるが、よい環境のもとで育てられる子どもへの配慮と保母の保育専念への対策として、保育所の建築、経営の上に慎言に適切な示唆であった。

昭和47年6月19日ランドルフ課長は当時の通訳小野田、田中の2人を連れて24年振りに静岡を訪れた。その時の民生部長、児童課長、職員ら6人は静岡市御幸町の中島屋サービスホテルで歓迎して昔話の思い出に一夜を楽しんだのだが、ランドルフ女史が如何に静岡県を愛し、精魂込めて静岡県の児童福祉、社会事業に情熱を打ち込まれたか、静岡は忘れられない、という感想をもたらしてくれたことは嬉しかった。」

<24年ぶり来静する>

昭和47年6月20日の静岡新聞に

「福祉事業育ての"母"米国のイレーヌ・ランドルフさん24年ぶりの静岡を訪問、戦後の思い出語り合う」のタイトルで詳細が発表されている。

この時、松永一雄氏からランドルフ女史に、日本人形が贈られている写真が大きく掲載された。

静岡軍政部の厚生課長は、昭和22年グリカット中尉、23年、ランドルフ女史、24年3月マックス・マイヤー課長と変わっているが、女史は厚生課に終始一貫席を置いて活躍したのであった。

昭和24年7月、軍政部が民事部に改称、11月にも民事も廃止され、アップマン隊長は横浜第8軍司令部に赴任、この時静岡市議会は感謝状を贈呈して送別したと記録されている。

(永田 泰嶺 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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