先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

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File 03

富士育児院の創立者

渡辺 代吉 氏 Daikichi Watanabe

Profile

【静岡県歴史人物事典より】
 1870(明治3)〜1928(昭和3)。社会福祉事業家。
 富士郡吉原宿(富士市)の魚屋渡辺平吉の三男に生まれる。12歳で仏門に入り義海と名乗るが、のち断食荒行のため肢体不自由の身となった。
 加持祈?師として巡歴するうち、横浜で米人宣教師ジェームス・バラの教えを受けキリスト教に改宗した。
 神学校卒業後の1901年(明治34年)吉原町に帰り、キリスト教関係者の扶養金を基に貧民の子女を集め子守学校兼手芸工場を設立し、社会福祉活動の道に入る。
 工場経営の失敗後、肢体不自由児や孤児を引き取り、これを機に1903年富士育児院(社会福祉法人芙蓉会)を創設した。
 社会の偏見や経営難と闘いながら、当初から孤児、貧民に加え、盲目・聾唖などの身障児や貧民も収容に努めた。1912年(大正元)、同院は社会法人となり、公的補助も得て経営もようやく安定、1924年には養老部を併設した。キリスト教ヒューマニズムの熱い実践の後半生であった。   (加藤 善夫)

難行で障害者に

 富士育児院(現在の社会福祉法人芙蓉会)初代院長・渡辺代吉は、明治3年11月10日、富士郡島田村(富士市吉原)で生まれた。
 13歳にして、富士宮市日蓮宗久遠寺の住職妙光院月海につき得度出家して、僧名を義海と名のった。
 義海は、仏教心理を探求するに、自らの肉体を難行苦行にさらしてこれに耐えた。寒中、白糸の滝にうたれ、長期の断食行、これに満足できず手のひらに油をそそぎ燈心を立てて火を灯して耐え、腕の関節に百目ローソクを立て火の消えるまで耐えるなど、身体のいたる処、やけどの傷あとだらけとなった。
 両手の指は動かず、両ひじも曲げられず不具者となった。
 これにもめげず、全国を行脚して修行をづづけていたが、横浜に出て山口という祈祷師と共に、仏教ともってキリスト教と討論すると宣言して、キリスト教宣教師シェームス・パラ博士を訪問した。
 博士は苦行をかさね不具者となった義海の姿に同情し、諄々とさとされたので、遂に改宗して還俗し、渡辺代吉の名に戻ることになった。
 以後、パラ博士に随身し、すすめに従って横浜市山下町のキリスト教伝道学校に入学、明治34年4月、教師と共に伝道布教に従事することとなった。
 伝道学校の教授であり、またシカゴ大学の教授であったトーレイ博士は、真剣な不具の求道代吉の姿に感激し、シカゴ大学にこの一日本人を紹介したので、忽ち同情金が集まり二千ドルに達した。
 伝道学校の教授たちはこの内より、毎月30円づつ代吉に送金することときめ、故郷の吉原に帰り十分養生するようすすめ、その言葉にしたがった。
 しかし代吉は、自分一人が徒食するには忍びずとして、空き屋を利用し「子守学校」を開設した。子守学校とは貧困家庭の子女10数人を集め、造花の内職をする授産事業で、製品は米国に送られることとなった。
 毎月の送金を資本とし、児童と共に造花作りに生きがいを見出し、作業に従事し製品を送ったのであったが、次々に不良として返送されて来てしまった。アメリカへの長い輸送期間中に、パラフィン紙の?がとけて形をくずし、造花そのものも米国人の嗜好に適しなかったためであった。

富士育児院の創立

 1ヵ年余りの経営は大失敗に終わり、2千ドルの同情金も費消して終わった。
 作業に従事した児童もつぎつぎに去って行ったが、3人の身体障害者の孤児が行き処なく残った。代吉は、自らが不具の身であったため、手放すに忍びず、この子供達と生活する事を考えた。
 これが富士育児院創立の動機となったもので、名称は、富士郡長が名付親となった。この状況を見た恩師のパラ博士は、援助金を送って激励したので、島田村依田原の民家を買い取ることができ、移転して収容施設となった。
 形ばかりではあるが、名称も施設も、また、みずからも、富士育児院長となったので、県下に知られるようになり、各市町村より孤児・精薄児が送りこまれてくるようになった。しかし、それに伴う経費はついてこなかったので、収容児が増加すればする程経営は困難となり、職員も不足した。
 院長代吉は、晩婚ではあったが、御殿場より人手をふやすために妻を求めた。渡辺まつである。神奈川県鎌倉保育園長佐竹音次郎が、教会の関係で仲人となった。
 院長は、妻に施設を預け、外へ出て、寄付帳を持ち歩いたが思うように集まらず、廃品回収や行商を思いたち、風呂敷を背負って乞い歩いた。
 この姿に感激した一篤志者が、大八車を提供してくれた。
 院長は喜びに満ちて車を曳き歩いたが、梶棒を握るには、余りにも変形した不具の手で、手首でしか力は入らなかった。坂道にはなお困難して汗を流した。
 「おさなごの如くならずば、天国に入ることあたわず」この聖書の一節をつぶやくことによって、彼は不思議な力を与えられた。この努力がみのって、大正11年5月、国と県の補助金により、宅地6百坪が購入でき、新築移転するとともに養老部も併設することが出来るようになった。

戸巻俊一との出会い

 この頃、神学校在学の一青年が、知人の保母の紹介で施設の視察にきた、戸巻俊一であった。
 「雄大なそして美しい富士を見においで」の言葉にさそわれて、訪れたのであったが、迎えてくれたのは、児童達の明るい顔であった。
 戸巻は感激して、直ちに奉仕活動に入ってしばらくとどまったが、数ヵ月後神学校に戻り卒業し、昭和2年、院長補佐として正式に就職することになった。
 若い補助者を得て安堵したためか、院長は病弱となり、顔面神経痛と耳うしろ癌様腫物に苦しみあえいだ。沼津の沢鍼診療所に入院しつつ、沼津楠病院に通院し、ラジウム療法を受けたが、昭和3年5月23日数奇な人生を閉じた。
 顔面神経痛で口は曲り、両手は木瘤のごとく、仕烈な最後の姿であったと言う。遺言により、二代院長には、妻渡辺まつが継ぎ、名称を富士育児養老院と改称したが、昭和6年続いて死去したので、戸巻俊一が三代目院長となり現在に至る。
 代吉の薫陶を受けた戸巻俊一とは2ヵ年の期間にすぎなかったが、青年戸巻に対しては容赦ない鞭撻が強いられた。今迄経験のなかった養老部の、重症老人の脱糞の始末をためらう戸巻を見て言った。
 「お前も、おむつをして、寝ぐそをして見ろ、その体験がなければ老人のおむつ交換のこつは分からない」と、きめつけられそれを実行したと言う。
 その他、掃き、拭き、掃除にいたるまで、手をとって教え込まれた。
 このような反骨老人の代吉ではあったが地域の人々とは親しくし敬慕されてもいた。
 村の消防団長におされていたので、火災の半鐘が鳴ると飛び起きて、火事装束をまとい、提灯つけてとび出すのが常であったが、不具の両手では長靴がはけず、戸巻がはかせ役に廻った。
 消防団長の役職は、好みに合った様子で、出動の際の姿は、活き活きとして、仁王のようにも見えた。
 入院してからの、補佐の戸巻は院長代理として寄付や募金に歩きまわったが、自転車がほしいのに、借財におわれてその経費が出なかったと言う。

根生が養豚親に

 初代院長なきあと、財政不如意に落胆する戸巻三代目院長に勧告する男がいた。
 施設の残飯、残菜を集めにくる養豚業の親爺松野であった。
 松野は寝ているめす豚を指して言った。
 「めす豚には乳首が14ある、一頭の豚から14の子豚が生まれていい訳だ、俺は人間を信用しないが豚を信用する。」
 このことにより、人をばかり頼りにしていた寄付金募集を中止して、20円でめす豚一頭をゆずり受けて飼育を始めた。
 間もなく八頭の子豚が生まれた。豚の出産の完璧を期するため、豚小屋に徹夜した戸巻院長の姿に感激し、施設の老人も子供達も歓声をあげた。
 松野親爺が教えてくれた、一が八になることも味わうこともできた。
 かくして、最高90頭を飼育するまでになり、屠殺場にも出入し、解剖、解体にも立ち会い、その技術さえも覚えた。
 戦時、戦前、戦後を通じ、施設の老人、児童等60人を護りつづけることが出来たのは、渡辺代吉初代院長の根生を受けつぎ、松野養豚親爺の示唆によるものではなかったか。
 昭和22年12月、GHQの指導により、養老院は同胞援護会経営の伊豆長岡温泉の「湯の家」に分離され、名称も「富士育児院」と古名に戻った。
 昭和32年「社会福祉法人 芙蓉会」として現在地に移転、新築がなされ、乳児施設みどり園、養護施設ひまわり園が設置され今日に至っている。



※ この文書は昭和56年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(永田 泰嶺 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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