先覚者シリーズ 跡導(みちしるべ) ~静岡の福祉をつくった人々~

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File 05

盲教育の先駆者

松井 豊吉 氏 Toyokichi Matsui

Profile

【静岡県歴史人物事典より】
 1869(明治2)〜1946(昭和21)。静岡県盲学校創立者。城飼郡横須賀村松井儀恵茂の次男に生まれる。1888年(明治21)磐田郡袋井町のキリスト教会で入信。1887年同町の塩谷家に入籍したが1891年離婚、志太郡藤枝町に母と移る。
 仕事に一心に励んだが、過労のため失明し、投身自殺を図る。この時「死んで母をどうする」という内心の声でわれにかえり、按摩を業にしようと上京。たまたま東大新手術の試験台となり、運よく薄明を得た。これは盲人のために貢献せよという天の啓示であるとさとり、郷里に帰り、小笠郡掛川町で盲人学校設立に着手。掛川中学同窓の飯塚仙太郎、杉山東太郎らの賛助により、「東海訓盲院」を1898年(明治31)3月設立し、悪戦苦闘の数年を経て、小笠郡南郷村神代地の小屋に生徒一人から始まり、徐々に増加していった。戦争・火事等の災害と戦いつつ、生徒の中から小杉あさという後継者を育てた。1917年(大正6)静岡市に移転、1933年(昭和8)県に移管される。また、1907年(明治40)、静岡市井宮に孤児院静岡ホームを設立し、初代ホーム長となった。静岡民友新聞社、静岡英語学校等にも勤めたが、77歳で没。キリスト者としての生涯を貫いた。    (平松 文兵)

東海訓盲院創立

 静岡県下に最初の盲学校、東海訓盲院(のちの静岡盲?学校)を創立した松井豊吉は、明治2年4月14日(1869年)静岡県小笠郡大須賀村横須賀無番地に出生した。まもなく醸造業の塩谷家の養子となった。

 少年時代にキリスト教の感化を受け、熱心なキリスト教徒となった。しかし、養子先がキリスト教義にあわぬ酒屋であることから、煩悶のすえ、塩谷家を抜け出し、松井家に戻ったのが12歳の時である。向学心の強い豊吉は、県立掛川中学校に入学し、明治19年3月(1886年)卒業しているが、卒業証書には、塩谷豊吉となっているので、松井家の戸籍に戻ることは、出来なかったのであろう。明治17年藤枝村にて江河勝太郎が、最初の新聞販売業を開始したのを見て、国民教育文化を高めるのは、新聞であるとして江河家に身を寄せた。静岡市より藤枝を往復して、新聞の輸送と販売に従事した。当時、東海道線に藤枝駅は無かったから、体力をもって当たるしかなかった。22歳より26歳まで、献身的な努力を重ね、新聞による勉強を続けたが、貧乏暮らしの青年に与えたものは、両眼失明という暗黒で、これが凡てを閉ざしてしまった。

 記録によると、藤枝市鬼岩寺、江河勝太郎方寄留となっていることから、江河家の斡旋と、キリスト教関係者の好意により、東京盲学校に入校出来たものと思われる。盲学校の教官、奥村三策に鍼按学(あんま・はり)の授業を受けると共に、豊吉の角膜実質炎の治療を受けた。半眼のみであったが、2ヵ年間の暗黒に曙光が指しかけた。豊吉はその光をキリストの恵みとして仰ぎ、この喜びを人々に分け与えねばならぬと心に誓いをたてた。明治30年4月、掛川町に帰宅して、東海訓盲学院を設立して、自ら主任教師として謝恩の経営が始まった。時に28歳の成年である。

 しかし4年後の明治34年4月24日付で、静岡民友新聞と静岡新報に静岡訓盲学院退職の声明文を発表して去っているが、経営の問題かキリスト教の純粋性を求める教理の関係なのか、声明文といえ、その核心にはふれていない。

 退職して2カ月して、直ちに静岡民友新聞の記者として入社している。また同年8月には埼玉県入間郡川越町の黒田らく、27歳と結婚し、静岡市東草深町に転居、新本籍となって長男、守が出生する。明治35年には黒岩周六氏の卒いる万朝報社の「理想団静岡支部」を結成して、自宅を事務所に当てる等、常に理想に向かって情熱を燃やし続けたのである。

 明治39年7月、ビクトリア大学文学士、神学士、ロバート・エンバーソンと共に、静岡英語夜学校を創設し、主事として校務を担当するが、これが現在の草深の静岡英和女学院である。

 明治40年1月、北米カナダ、メソジスト伝道会社の嘱託となり、静岡市井宮に孤児院、静岡ホームの創設に当たり、初代ホーム長となり、大正3年までの7年間を継続勤務している。

静岡から愛媛へ

 東海訓盲学院創設以来、常に卓見と誠実の手腕を認めた静岡県庁は、愛媛県より依頼された、愛媛県自彊学園開設の初代園長に松井豊吉を推選した。大正5年7月、豊吉45歳の働きざかりの年齢で、4男1女を伴い家族7人が瀬戸の海を越えて官史として正式な就職を得ることになる。愛媛県自彊学園は感化・救済事業で、今で言う非行青少年の収容施設であった。月俸45円が支給され、今まで奉仕活動ばかりして来たので、家族にとっては家族にとっては初めて安定した経済にひたる事が出来たことであろう。らく夫人も保母として勤務することになる。

 大正5年、掛川の訓盲学院は静岡市安東に移転され、私立静岡盲唖学校と改称大正7年11月、再び安東に移転された。創立者であった豊吉は、感慨をこめて開校式の祝詞を送っている。全身全霊を以って事に当たるキリスト者の豊吉には時おり魔の影がさすのはどうしたことであろう。

 大正6年3月のことである。広島市に全国救済事業地方講習会が開催された。全国から多数の出席者から、自然にキリスト者、仏教者、神道関係のグループが出来て、意見交換などをした。キリスト者たちは、会場の一角で物故した施設長を偲んで祈祷をしたことが物議をかもす原因となり、次の日会場で非難の矢表に立たされたのが松井豊吉であった。

 新聞は、神・基・仏の宗教団体の衝突として大々的に報道したため、豊吉は愛媛県知事に始末書を提出させられた。その月の日記に「一犬虚を吠え、万犬実を伝う」と事実無根も報道されてしまえば、終わりとなる無念さを書き綴っている。県の吏員として名を傷つけられれば、身の処置をしなければならない。

最後の再起

 大正9年、無念の涙をたたえ同じ瀬戸の海を渡って、静岡市井宮町、静岡ホームに帰った。時の関屋知事は、松井豊吉の人柄をこよなく愛した人であったので、早速、静岡県盲学校の事務嘱託として手当30円を支給した。ついで、同年9月、静岡県社会課の発足により、静岡県嘱託、内務部社会課勤務を命ぜられ、年棒1,200円が支給された。失意と再起が何回も訪れる松井豊吉の生涯に、静岡県の社会課勤務は最後の再起となった。先ず、静岡県社会事業要覧を作成して、県下の社会事業施設及び民間の奉仕関係を余す処なく掲載し、静岡県社会事業協会設立の事業の一つとして実現させた。

 大正10年12月、道岡知事の時代となり、静岡市に児童保護協会を設立させ、知事を顧問として活躍を開始した。

 大正11年、方面委員制度を静岡県に発足させる等、見るべき業績顕著なので、大正12年3月、静岡県社会主事を命ぜられた。大正14年9月、社団法人救護会理事長、兼子弥惣が急死したので、遺族扶養資金募集を県社会事業協会の名において実施し、自ら県下をかけめぐりたちまち635円16銭集め、遺族に送っている。性格としては、全く正反対の任侠の社会事業家兼子弥惣を親友としていたのは不思議な組合せであるが、豊吉の手記には次の様に記されている。「多面多角の人、行くところとして可ならざる人物、政治、宗教、教育、手芸、応対の妙を極め、逸談に富む。性上洲任侠肌、義を見て死を知らず、多感、強者に硬く弱者に柔き人、永久に忘れられぬ人。奇智縦横、雄弁人を圧す。所謂、堅白異同の弁か言辞若し達せざれば、腕力以って補う勇気の人、胆力の人たりき」

 昭和2年8月25日、58歳をもって静岡県庁を退職し、民間にあって方面委員教護委員等の奉仕事業に従い、そのかたわら静岡県社会事業史科の収集につとめている。この収集書類が、現在残されて「松井文書」として貴重な資料となっている。

 

 大正9年9月10日付国民新聞に、『静岡県庁は、新たに社会課の一課を設け、元本県で勧化救済事業に経験があり、現在の愛媛県で同事業に従事していた松井豊吉氏を聘して嘱託とした。本県庁の社会課が、果たして如何なる仕事をなすであろうかは、今後のやり方一つであるが、松井嘱託は(お役人化せず、自由に社会事業を理解して事務をとりたい)といっている。形式にのみ抱泥する幣をさけ、金持ちに社会奉仕の念を植えつけたいことを主張している。』とあり。「徳業、善業と言うものは、広い意味での社会事業である。」とも言っており、豊吉の手をつけた活動範囲に驚く次第で、児童問題、防貧事業、禁酒会、職業紹介、宿泊施設から仏教寺院の保護連合会(安倍郡安東村)仏教積善会(浜松東鴨江)金原明善の免囚の保護の勧善会、キリスト教の友愛会(静岡西草深)等々と、社会事業団体の内に入れている。また矯風事業では、廃娼問題に取り組み、全国娼妓数は、大正8年末で9万4000人、芸者は7万人で計16万人を救済しなければと叫び、婦人矯風会静岡支部を静岡西草深町に発足させ、会員には白リボンの徽章をつけさせたとある。

 県庁の或る課が設立祝いを料亭で催すことになった時、矯風事業、禁酒会を主張する松井豊吉は、反対ビラを撒いて歩いたと新聞のコラム欄に掲載されたりもした。豊吉の趣味は、単価を作ることで、昭和9年の年賀状に作歌累計3万103首と記録されている。

 昭和21年、大東亜戦の終戦前後の空襲の疲労、食料事情の悪化がたたって、栄養失調状態となり、藤枝市南新屋、岡野正志方(青木橋保育園)で死去した。



※ この文書は昭和57年に執筆されており、文中の「今」や「現在」などの表記及び地名、団体名、施設名等はすべて執筆当時です。

(永田 泰嶺 筆)

【静岡県社会福祉協議会発行『跡導(みちしるべ)―静岡の福祉をつくった人々―』より抜粋】 ( おことわり:当時の文書をそのまま掲載しているため、一部現在では使用していない表現が含まれています。御了承ください。 )

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